第五章 バトンを渡した後に

私が尊敬申し上げている経営者の方から、思いがけないことを伺ったことがありました。

「僕、失脚しちゃったんだよね。」と寂しそうにポソっとひとこと。 「え?」と目で尋ねた私に答えて、「いや、相談役からも退いたので、車を取り上げられちゃってさ…」

野暮を承知で解説しますと、相談役を退任したので、会社が用意する黒いハイヤーが使えなくなった→「足」であった車がなくなった→「失脚した」というジョークです。

この方は製造業の分野で日本を代表する大会社の専務から子会社(といっても年商は3000億円を超えます)に転出され、そこで社長、会長を務められました。公私ともに見識豊かな立派な方です。そんな方でも、半ば冗談とは言え、このご発言。経営者にとって、現役を離れるということは、とんでもない寂しさを伴うものなのです。

いわゆる「サラリーマン経営者」であってもこれだけ寂しいのですから、総じて社長在任期間の長いファミリービジネス経営者にとってはなおさらのことでしょう。この寂しさに耐えられないと、せっかくバトンを渡したのに、「継いだ人」の経営になにかと口を出すようになってしまいます。

「有」から「無」に一気に転じるのは至難の技です。私が直接・間接に存じ上げている経営者の中で、これが出来たのは第四章第二節でご紹介したAさんだけです。ここでAさんについておさらいしてみましょう。

Aさんはファミリービジネス企業の四代目。とはいえ創業者の血筋というわけではなく、三代目のお嬢さんと結婚されました。Aさんが退くタイミングを定めたのは55歳ごろ。65歳で退くと決め、後継者選考に着手しました。奥様とAさんはご子息に会社を継がせないことを早々に決めていて、ご子息たちは全く関係の無い会社に就職。したがって、後継者は社内から選ぶことになりました。

自らが育成した幹部を後継者に選び、61歳で会長に就任、65歳で会長を降りて取締役相談役に。その1年後、66歳で退かれたました。

ちょうどこのタイミングで会社は新社屋に移転したのですが、後継社長から個室をご用意しますと打診されたのに対して、あっさり辞退。「部屋があれば会社に行ってしまうかもしれない。会社に行けば、誰かには会う。誰かに会えば、新社長について色々聞かされるだろう。そうなると、私も何か言ってしまうかもしれない。それは、新社長にとってマイナスでしかない。」

今日に至るまでAさんは新社屋に一歩も足を踏み入れていないばかりか、大株主であるのにもかかわらず株主総会にも出席されていません。社外の役職からも完全に退かれて、ご自分の時間を楽しんでおられます。

Aさんのように、あっさりと「ただの人」になることができる人はほんとうに稀です。とすれば、圧倒的多数の「普通の人」はどうすればよいのでしょうか。私は以下のような処方箋をお勧めしています。

1)譲った会社以外に、行く場所をつくる

2)新しくやることをつくる

順を追ってご説明します。

1)譲った会社以外に、行く場所をつくる

ここで強調したいのは、譲った会社に出向いてしまわないために、他に行く場所をつくることの大切さです。

自分の分身のように感じていた会社を「継ぐ人」に譲った後、直ちに新しい事業を立ち上げて獅子奮迅するというのも選択肢としてはありえます。しかし、それが出来る方はごく少数にとどまるでしょう。私がおすすめするのは、ひとまず個人事務所を設立することです。とにかく、まず行く場所をつくるのです。

一等地に事務所を借り、秘書を雇うなどと大袈裟なことを考える必要はありません。(もちろん、経済的余裕がおありであれば、私は敢えて制止しませんが。) いまは手頃な値段のシェアオフィスがたくさんありますし、電話対応などの秘書サービスを提供してくれるところもあります。ひと昔前に比べれば、はるかに軽い負担で済みます。

大事なのは、とにかくまず「行く場所」を確保することです。

ジャパネットたかた創業者である高田明さんが社長職をご子息に譲った後、最初に手掛けたのは個人事務所「A and Live」社 の設立でした。(ちなみに、退社したその日に設立されています。)

ジャパネットでは平成25年、「覚悟の年」として減収減益から過去最高利益を達成するために、社員が一丸となって取り組んで結果を残した姿を目の当たりにし、成長できる力があることを確信できたことと、IT化が進むこれからの時代、デジタルに強く、先を見通せる経営者が適していると考え、社長を退くことを決めました。長男からは「会長として残って」と言われましたが、そのまま残って会社の最終判断が僕のところにくるようになったら、何のための後継だったのか、となりますよね。

(中略)

僕の誕生日は明治節にあたる11月3日で、それで名前が明。その明の「A」と、「Live」は、みなさんにどんな世の中でも生き生きとした人生を送ってもらえるようにということで次女が提案をしてくれ、この社名になりました。よく冗談で、「『明はまだ生きてるぞ』の意味です」とも言っていますが。

 

                 産経新聞 話の肖像画 ジャパネットたかた創業者 高田明 2021年6月9日

高田さんはジャパネットたかたを退職後、この個人事務所にそ所属するタレントとしてショッピング番組に出演されておられました。サッカーJ2のV・ファーレン長崎の社長に就任されたのは、その2年後のことです。

2)他にやることをつくる

「他にやること」とは、言うまでもなく、今まで経営者として携わってきた分野/業界とは別の仕事、という意味です。いわゆる土地勘の乏しい仕事だからこそ、寂しさを忘れるほどに忙しく過ごすことができるのです。

「他にやること」として多くの場合に頭に浮かぶのは、社外取締役/社外監査役でしょうか。会長から退任するタイミングを見計らって、ヘッドハンターから話が持ち込まれることもあるかと思います。いくつか兼務して忙しくなれば寂しさを忘れることはできますし、土地勘の無い業界であれば、新鮮で楽しい経験になることでしょう。しかし、これは本質的な解決策ではありません。敢えて言えば、時間稼ぎにしかなりません。

というのは、社外取締役/社外監査役には任期があるからです。昨今は高齢の社外役員を忌避する動きもあります。数年後には退任せざるを得なくなるはずです。そうなると、スゴロクの「振り出しに戻る」になってしまいます。

やはり、他にやることをつくることが大切です。この点について近年でもっとも見事な事例は、壱番屋創業者の宗次徳二さんでしょう。

安心して(後継者に)経営を任せた後、新たなライフワークを見つけました。クラシック音楽を普及させるために、学生や音楽家を支援する活動です。03年にNPO法人イエロー・エンジェルを設立し、学校に楽器を寄付したり、若手演奏家に高額な楽器を無償貸与したりしています。街の美化やホームレスの方の支援などの活動もしています。

 

毎日、食うや食わずの極貧生活から何とか抜け出した15歳の時、ラジオから流れるメンデルスゾーンの「バイオリン協奏曲ホ短調作品64」を聴いて、クラシック音楽のとりこになりました。07年には、音楽家の活躍の場をつくるために、28億円の私財を投じて、名古屋でクラシック専用の「宗次ホール」を開業し、年間400回近いコンサートを開いてきました。これは音楽ホールとしては、国内でダントツだそうです。

 

まだ知名度があまりない演奏家にも機会をあげようとすると興行的には難しい点も多く、赤字が続いています。経営者としては頭が痛いところですが、本気で頑張っている人を応援するのは本当に楽しいものです。

 

                                       日経ビジネス2020年4月20日号

高田さん、宗次さんの事例に共通するポイントは「行く場所」をまずつくったこと、そして新しい領域で「他にやること」をつくったことです。この順番が逆ではないかとお考えの方もおられるかと思いますが、それが落とし穴なのです。

経営者として全力で働いている間は、「他にやること」を考える余裕が無いのが普通です。譲った後に考え始めることになりますが、そうなると、時間がかかります。結果、譲った会社にズルズルと通うことになってしまうのです。

まずは譲った会社以外に「行く場所」を確保し、そこでゆっくり「他にやること」を考えるのがポイントです。

「他にやること」としての地域活動

「他にやること」ととして私がおすすめしたいのは地域活動です。ファミリービジネスは地域との関係性が深いことが多いので、これまでに培ってきた経営者としての手腕を発揮することは大きな貢献となります。ここでも好事例になるのは「ジャパネットたかた」の高田明さんです。

社長を退任して「ジャパネットたかた」からも退職して2年が経った時、息子であり後継者である旭人氏からとんでもない話が持ちこまれました。

旭人が持ってきた話とは、地元のJ2サッカークラブ「V(ヴィ)・ファーレン長崎」の再建問題だった。累積赤字は3億円を超え、監督や選手への給与支払いもままならない。経営陣はスタジアムの入場者数を水増ししてJリーグ(日本プロサッカーリーグ)に報告していたことも後でわかった。クラブは消滅の危機に直面していた。ジャパネットは私の時代からメインスポンサーだったが、クラブの経営には関与していなかった。「長崎の子どもたちの夢をつぶしたくない」。旭人は経営権をもって立て直したいと言う。2017年4月、ジャパネットはクラブを完全子会社にして、私がV・ファーレン長崎の社長に就任し、再建に取り組むことになった。通販とは畑違いの分野だが、会社経営という意味では同じだから不安はなかった。

 

当初、財務体質改善のために3年間で10億円と踏んでいた。だが財務状況は想像以上に厳しく、初年度だけでジャパネットは10億円以上をつぎ込んだ。監督や選手には「経営は私が立て直しますから、安心してプレーに専念してください」とだけ言った。不安を払拭することが経営者として最優先だった。

 

少しは試合や練習に集中できる環境ができ、気持ちが変わったことで本来のチームの力を発揮できるようになったのだろう。社長に就任した4月に9位だった長崎は、あれよあれよと翌年度のJ1昇格チームを決めるプレーオフ圏内に食い込んだ。2位で香川のカマタマーレ讃岐をホームに迎えた11月11日は、勝利すればJ1への自動昇格が決まる戦いとなった。諫早市の「トランスコスモススタジアム長崎」を2万2000人のファンが埋め尽くした。試合は前半、長崎がゴールを決め後半に追いつかれたものの、2点を追加して3対1で勝利した。8カ月前には倒産寸前だったクラブが、自力でJ1に昇格した。長崎の奇跡だった。

 

                                    日本経済新聞 私の履歴書 高田明

多くのファミリービジネスでは、地域への貢献は「当主の仕事」とされています。祇園祭で有名な「宮本組」のように、それが伝統として制度化されている場合は仕方ないのですが、会長・社長を退いた人の「他にやること」として、もっと推奨されてよいのではないかと私は考えています。高田さんのように中心となって引っ張るのもひとつの形ですが、若い人を一種の「タニマチ」として支えるのも一案です。このほうが、地域からの評判も良いかもしれませんね。

この記事を書いた人

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元永 徹司

ファミリービジネスの経営を専門とするコンサルタント。ボストン・コンサルティング・グループに在籍していたころから強い関心を抱いていた「事業承継」をライフワークと定め、株式会社イクティスを開業して17周年を迎えました。一般社団法人ファミリービジネス研究所の代表理事でもあります。

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