第三章第三節「特別扱い」とは〜その2:「辺境」で成功する

前回は、「継ぐ人」を「特別扱い」するということには、4つの要素が含まれるのが理想であるとお伝えし、まず「現場で汗をかく」ことの大切さについてご説明しました。4つの要素を復習しますと、

A)現場で汗をかく

B)辺境で成功する

C)全社を俯瞰する

D)主力事業の指揮をとる

今回は、2番目の「辺境で成功する」についてご説明します。

「継ぐべき会社」に入り、最初の(理想的には)2年間を「キツい現場」で過ごした「継ぐ人」を、そのあとどのような部署に配属すべきでしょうか? 私は「辺境」に配属し、そこで成功体験を得させるのがよいと考えています。「え?」と疑問に思われる方も多いことでしょう。詳しくご説明しますね。

「辺境」とは何か

まずは「辺境」とは何か、からご案内しましょう。もちろん、「継ぐ人」を僻地に飛ばせ、ということではありませんよ。ここでいう「辺境」とは、継ぐべき会社の主力事業部門(いわゆる「本流」の部門)ではないところという意味です。ざっくり言って、3つのタイプに分かれます。

1)サブ事業部門

継ぐべき会社が複数の事業部を持っている場合、その中で傍流であると位置づけられがちな部門。えぐい言い方をすれば、非主流部門ということになりますか。

2)傍流部門

営業が自他ともに花形部門であると認められている会社に於ける物流部門のような、ふだん注目されていない部門。存在しないと困るけれども、社内で脚光を浴びることのない部門です。

3)新規事業部門

継ぐべき会社が今まで経験したことがない、新しい事業部門。ただし、本業から見てまったく離れた「飛び地」的な事業ではなく、隣接領域であることが望ましい。

 

なぜ「辺境」なのか

「継ぐ人」にとって大切なのは、社員たちから後継者たるに相応しいと認められることです。最初に「キツい現場」に入って耐え抜くことで熱意と姿勢を示した後に必要になってくるのは、小さくても良いのですが、経営実績です。もちろんそれは「継ぐ人」にとっては、成功体験となります。

「譲る人」に求められるのは、「継ぐ人」が実績をあげやすい部門に配属し、万全のバックアップをすることです。

理想論としては、本流たる事業部門で実績をあげることが望ましいでしょう。しかし、2年ほどの現場勤務を終えたばかりの「継ぐ人」にとって、それはかなり高いハードルです。また、本流部門には社内の人材が集中しているのが常ですから、「継ぐ人」が頭角を現すどころか埋没してしまい、自信を喪失するだけでなく、最悪の場合には社員から侮られることにもなりかねません。

その一方で、「辺境」にエース級の人材が置かれていることは稀ですから、「継ぐ人」は容易に目立つことができます。また、いままでさほど重視されていなかった部門に、「継ぐ人」のバックアップとして経営資源を注ぎこめば、「継ぐ人」の成功確率は高まります。

つまり、「辺境」は「継ぐ人」の成功をお膳立てするのに適した場所であるのです。

実際、事業承継の成功事例をよくよく観察すると、「譲る人」が巧みに「辺境」を選び、「継ぐ人」を投入している例が見受けられます。以下では、「ジャパネットたかた」と、「スノーピーク」の事例を見てみましょう。

 

傍流部門へ「継ぐ人」を投入した事例〜ジャパネットたかた

「ジャパネットたかた」の事業承継は、近年を代表する成功事例ということができます。その概要は「継ぐ人」である高田旭人社長の「ジャパネットの経営」(サイバーエージェント社)に描かれています。以下、この本から引用します。

大学を出て野村證券で「他人の飯を食った」旭人氏がジャパネットたかた(以下では「ジャパネット」と略します。)に入社したのは25歳のとき。ジャパネットでは顧客情報流出事件が発生し、その対応のために予定よりも早いタイミングでの入社となりました。旭人氏は社内に設置された事件調査委員会のメンバーとして奔走。ようやくほとぼりがさめた頃、「譲る人」である高田明氏は、旭人氏を広告媒体を担当する責任者に任命しました。しかし、旭人氏は周囲と衝突し、行き詰まり、ひいては明氏とも対立するに至ります。

取引先も社員も責任者である僕ではなく、父のほうを見ていて、僕の話を全然聞いていません。こらえきれなくなって、大爆発したこともあります。(同書p30)

 

父とぶつかり始めたのは、たぶんこの頃からです。少しでも早く結果を出し、認められたいと焦る気持ちがあったのかもしれません。(同書p30)

当時副社長をされていたお母様が間に入り、旭人氏は本社のある佐世保から離れた福岡市のコールセンターの責任者に任命されました。このとき27歳。入社から2年が経過していました。

ジャパネットにとってコールセンターは「辺境」で、しかもその頃大きな問題を抱えていました。

当時あまり良くない状況にありました。何がまずいかというと、配属された新入社員45人中、30人が入社1年以内に辞めていたのです。残ってくれたのはわずか15人(同書p32)

そんな状況に怯むことなく、旭人氏は次々と改革策を打ち出し、率先して実行。3年でコールセンターを活性化することに成功しました。旭人氏の社内での存在感が高まってきたのを見てとった明氏は、2009年に愛知県春日井市に起工した物流センター立ち上げの責任者にも任命。コールセンターとの兼務で大変だったでしょうけれど、旭人氏はここでも期待に応え、結果を出します。

2010年9月にジャパネットコミュニケーションズとしてコールセンター部門が独立。僕はこの新会社の社長に就任しました。31歳のときでした。 その少し前に、愛知県春日井市に新設した物流センターの立ち上げも手がけ、父にもだんだん認めてもらえるようになっていました。(同書p34)

そして明氏は旭人氏を「辺境」から本社へと戻し、いよいよ本流事業に投入することになるのです。

さて、旭人氏が結果を出すことができたのは、もちろん彼の努力と資質によることに疑いの余地はありません。それはそうなのですが、私はその背後に、「譲る人」である明氏の周到な配慮を見ることができると思います。

まず、本流で結果を出させるにはまだ未熟であると早めに見切ったこと。もし最初のポストである広告媒体の責任者として据え置いていたならば、社内での旭人氏の評価は失墜していた可能性は大だと私は思います。そして、それが本流部門でのことであるが故に、旭人氏の後継者としての地位はかなり危ういものとなったでしょう。

ここで旭人氏を「辺境」であるコールセンターに異動させたところに、明氏の知恵を見ます。そもそもジャパネットにとっての傍流部門であるコールセンターには、旭人氏と競合するような人材は配置されていなかったはずです。社長の息子ということもあずかって、旭人氏がリーダーシップを確立するのは比較的容易であったことでしょう。

そして、コールセンターの活性化という課題は、なにもジャパネットが日本で他社に先駆けて直面するに至ったものではありません。他社での成功事例はたくさんあります。「継ぐ人」として評価挽回を期している旭人氏の意欲があれば、ベスト・プラクティスを下敷きにして改善策を組み上げることは難しくなかったでしょう。

いかに改善策を練っても、それを実行するには経営資源が必要です。私は明氏が、時として旭人氏に気づかれないような形で、バックアップを惜しまなかったであろうと考えています。現場としても、今まで問題があっても放置されていたのに、社長の息子がやってきて改革のリーダーとなり、それを社長がバックアップするとなれば、否応なしに士気は上がります。コールセンターの活性化の成功確率は高まるべくして高まったと言えますし、それが明氏の意図するところであったと私は考えています。

また、コールセンターの次に、物流センターというもう一段大きな「辺境」を用意したことも、明氏の老獪さでしょう。物流センター立ち上げは、投資規模としてはコールセンター再建を遥かに上回るものであると推察されます。しかし、その一方で、物流センターを起動させることについては、成功への方法論はすでに存在しているといってよいでしょう。ここでも成功は半ば約束されていたと言えるかと思います。

31歳の若さで、ここまで結果を出している社員は社内には存在しなかったはずです。明氏が旭人氏を本社に戻したとき、周囲からは畏敬の念で見つめられたことは想像に難くありません。明氏の「お膳立て」は完璧に成功したのです。

 

新規事業部門へ「継ぐ人」を投入した事例:スノーピーク

「継ぐ人」が社長に就任し、「譲る人」(会長)との並走期間に入りながら、不倫そして妊娠という想定外の理由で退任してしまったスノーピーク。同社を非難する方は多いのですが、事業承継計画そのものは、理想的にうまく進んでいたのです。私は優れた成功事例として、ジャパネットと並んでウォッチしていました。思いもかけない理由で事業承継が頓挫してしまったことは、本当に残念です。

以下では、第三章第一節でもご紹介した「成功は焚き火のように」(山井梨沙著、日経BP刊)から引用してご案内します。

山井梨沙氏は山井太社長の長女として生まれ、デザイナーを志して文化ファッション大学院大学に進学。卒業後、アパレルメーカーに就職しました。

一方、「譲る人」である太社長は、ご自身が37歳で二代目社長に就任した時点で、60歳で社長を辞めると決めておられました。

1996年、私がスノーピークの社長に就任した時点で、早々に決めていたことが2つありました。一つは60歳で社長を辞めること。もう一つは、後継者は30代から選びたいということです。社内外に公言していました。(同書p53)

3年間デザイナーアシスタントとして「他人の飯を食った」梨沙氏は、2012年にスノーピークに入社しました。入社するにあたっての経緯について、梨沙氏は次のように述べています。

きっかけは、私が仕事で行き詰まっている時に相談をしたことでした。当時、私はファッションブランドでアシスタントとして働いていたのですが、大量につくっては捨ててしまうという業界の慣習に違和感が募ってしまった。(同書p61)

 

そんな時に「スノーピークだったらお前がやりたいことが実現できるんじゃないのか」と言われたのです。特に入社を勧められたわけではありません。そこから、自分は洋服で何をやりたかったのかと改めて考えました。そして、スノーピークでなら、それができるかもしれないと気づいて、入社試験を受けたのです。(同書p61)

太氏はどうやら、梨沙氏の資質を以前から高く評価していたようです。

最近、父に言われてすごく印象的だったのは、「自分が経営者として30年間で培ってきた感覚を、お前は本能的に分かっている」という言葉。(同書p64)

 

僕の性格の中でも、「野生(的)」「運動神経」「クリエイティビティー」といった要素が梨沙には遺伝していると感じます。経営者として一番大事なエネルギーと時代を切り開いていく強さを、彼女は生まれながらに持っていたのかもしれません。(同書p57)

入社2年目の2014年に、梨沙氏をアパレル事業立ち上げ責任者として抜擢。太氏は最初の2年間、理沙氏を現場に投入しつつ、彼女のアパレル事業への思いの強さを見極めていたのだと思います。

アパレル事業はスノーピークにとっては未踏の領域で、社内には人材は皆無。当然ながら経験があり、思いもある理沙氏がリーダーシップをとることになります。そして太氏の期待に応えて、アパレル事業は無事に離陸することができました。

2014年、娘である梨沙が27歳の時に立ち上げたアパレル事業は、5年目を迎える頃には売上が15億円ほどになっていました。私も30代の時にオートキャンプ事業で20億円を売り上げていたので、規模は同じくらい。(中略)後継者の候補として私の迷いはありませんでした。(同書p53)

立ち上げに成功したのは、梨沙氏の努力とデザイナーとしての優れた才能あってのことですが、背景には、もちろん太氏のお膳立てがありました。太氏もそれは認めておられます。

アパレル事業が伸びた背景には、スノーピークのブランドや資金があり、また、直営店に並べることができたという環境も大きいです。(同書p54)

「継ぐ人」を新規事業部門という「辺境」に投入し、バックアップして成功させたことにより、梨沙氏の「継ぐ人」としての地位を社内外で確立することが出来たのだと言えるかと思います。これがもし本流であるオートキャンプ事業に投入したのであれば、梨沙氏の強みが際立つことはなく、これほどの短期間で成功することは難しかったことでしょう。太氏の用意したお膳立ては、見事に成功したのではないでしょうか。

さて次回は、4つの要素のうちの3番目である、「全社を俯瞰する」についてご説明する予定です。「やっぱりお父さんの鞄持ちは大事だよ」といったような俗説を聞かれることは多いかと思いますが、もう少しキチンと考えることが大切です。ご期待ください。

この記事を書いた人

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元永 徹司

ファミリービジネスの経営を専門とするコンサルタント。ボストン・コンサルティング・グループに在籍していたころから強い関心を抱いていた「事業承継」をライフワークと定め、株式会社イクティスを開業して17周年を迎えました。一般社団法人ファミリービジネス研究所の代表理事でもあります。

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