前回も申しましたが、並走期間は事業承継の山場です。今回はなぜ難しいのかをご説明します。難しい理由が事前にわかっていれば、それなりに乗り切ることを期待できるからです。(そうは言っても、なかなか一筋縄では行かないのが現実なのですが。)
この期間は全ての当事者にとって難しいのですけれど、わかりやすくするために、3つに分けてご説明します。
1)「継ぐ人」にとって
2)「譲る人」にとって
3) 社員にとって
では始めましょう。
1)「継ぐ人」にとって
「継ぐ人」にとって難しいのは、次の二つです。もちろん、大変なことは他にもありますが、重要なのはこの二つ。
a) 逸る気持を抑えて、「譲る人」と握る
b)自分の経営チームの編成に着手する
a) 逸る気持を抑えて、「譲る人」と握る
社長になったからには、自分が今まで練ってきた構想を一刻も早く実現したいと思うのは人情の常です。しかし、そこには落し穴があります。
ありがちな失敗は、新社長が逸る気持を抑えきれず、性急な打ち手に走ってしまうことです。往々にして、それは先代と違うことを手がけることによって自分の存在価値を示したいという気持から、新規事業展開の形をとります。しかし、この手の試みが成功した事例は稀です。なぜなら、多くの場合、事業計画自体が生煮えだからです。仮に事業計画がよく練られていたとしても、実行は困難です。なぜなら、社員にとって唐突感が大きいからです。失敗に終わった結果として、「継ぐ人」の後継者としての資質が問われることになってしまいます。
よくありがちなことであるわけですが、もはや古典的とも言える事例をご紹介しましょう。
事例:ワコール
ワコール創業者の塚本幸一氏は、長子である能交(よしかた)氏を後継者として定め、大学を出た能交氏をワコールに入社させた上で伊藤忠に出向させました。「他人の飯を食わせる」ためですね。1977年、伊藤忠で5年を過ごした能交氏を呼び戻し、「10年で社長にする」と社内外に宣言し、社内の主要な部門を経験させた上で1987年に社長に昇格させ、自らは会長に就任しました。並走期間に入ったわけです。
能交氏は「好きにやらせてもらいます」と幸一氏に告げ、紳士服やフローズンヨーグルトなどの新規事業に矢継ぎ早に進出したものの、ことごとく失敗してしまいました。このときのことを、ご本人は次のように回想されておられます。
社長就任後、アイデアに溺れて外食産業やカーレースに進出し、失敗してしまいました。週刊現代にも悪く書かれた記憶がありますよ(苦笑)。そのとき京セラの稲盛和夫さんに呼ばれ、「パンツのことだけ考えていなさい」と言われたことを記憶しています。たしかに、下着の仕事をしたくて入社した社員に外食を任せても積極的には働きませんよね。社員にはやりたいことをやっていただくのが一番よい。 (週刊現代 2014年9月20・27日号)
会長就任当初は見守る姿勢を強調していた幸一氏もさすがに介入を決断し、新規事業からの撤退を能交氏に命じました。ただ、能交氏を社長に据え置き、「失敗は良い経験になった。体で覚えた失敗は成功の要因となる」と庇ったため、当時の経済ジャーナリストから集中攻撃を受けたと伝えられています。
当時、能交氏は「バカ殿」として揶揄されたわけですが、能交氏の名誉のために言えば、能交氏の社長就任の3年前から婦人用下着の売上高は伸び悩み、市場の拡大は期待できないという観測が支配的であったという事情がありました。能交氏が抱いた焦燥感には十分な理由があったのです。
ただ、能交氏が幸一氏ときちんと握らなかったことは事実で、結果として挑戦は失敗に終わり、能交氏の後継者としての資質が問われるに至ってしまったわけです。
本題に戻りますが、いくら社内で実績を積み上げてきているとはいえ、新社長の社内での権力基盤はまだまだ弱いものであると自覚すべきです。5〜6年で社長が交代する非ファミリービジネスならいざ知らず、「継ぐ人」の上には30年近く経営をリードしてきた「譲る人」が会長として控えているのですから。逸る気持ちを抑えて、「譲る人」ときちんと話し、そして握ることが大切です。
どうしても「譲る人」と握れない場合にはどうするか。これは難問です。というのは、答えは二つしかないからです。それは、「継ぐ人」が辞めるか、「譲る人」に対してクーデターを起こすか。辞めた後、戻ってクーデターを起こした事例としては星野リゾートを挙げることができます。
事例:星野リゾート
軽井沢の伝統を誇る旅館の四代目として生まれた星野佳路氏は、当然のことながら家業の後継者として育てられました。大学卒業後、ホテル経営学の名門であるコーネル大学のホテル経営大学院へ留学し、修士号を取得。アメリカの日本航空系のホテル会社で2年を過ごしたのち、帰国して家業(当時は星野温泉)の取締役に就任しました。ここまでは予定どおり。しかし、ここで星野さんは大きな壁に直面しました。以下、『星野佳路と考えるファミリービジネスの教科書』(日経BP社刊)から引用します。
ホテル経営大学院で学び、経営戦略やマーケティングの理論に興味を抱き、意欲的に学ぶうちに、「いい経営者になりたい」という新しいアイデンティティーを得ることができました。(中略)
社員のモチベーションを高く維持し、それが顧客満足、そして高収益につながる仕組みとなり、結果として長期的に持続可能な競争力をいつくることができる経営。経営理論を大事にすることで、そんな好循環を生む強いチームを作り、支援し、リードするのが「いい経営者」である。 (同書p.19)
ところが、現実は厳しいものでした。
いざ帰国して知ったのは、父をはじめとする同族中心で経営していた実家の状況が、私の考える「いい経営」とは真逆だという事実でした。 (同書p.19)
留学を経て家業に入ってみたものの、改革を進めようとする佳路氏に対する同族の反発は強まり、佳路氏は半年で退職を余儀なくされました。その後、シティバンクでリゾートホテル事業の債権回収業務を担当すること2年。親戚である株主や社内外関係者から呼び戻される形で、星野温泉に再入社。1991年に実父と経営権を争った末、株主総会で実父を解任して31歳で社長に就任。その後、精力的にビジネスモデルの転換を推し進め、今日の星野リゾートに至ります。
このように佳路氏の歩みを追ってくると、父である星野嘉助氏が保守的で頑迷な方であったかのような印象を抱く方もおられるかもしれませんね。しかし、そうではないのです。同書の終わりの部分に社員の方々が嘉助氏を偲ぶ寄せ書きが収載されているのですが、中にはこんなものが。
視察研修でラスベガスにご一緒した際に、次は葬儀ビジネスだと熱く語っていたのが印象的です。 (同書p.413)
むしろ進取の気性に富んでいて、しかも気性の激しい方であったようです。だからこそ佳路氏との経営路線を巡る対立が抜き差しならぬところまで進んでしまったのでしょう。
さて、この二つの事例を踏まえて私が申し上げたいのは、次の二つのことです。
まずは、「継ぐ人」は、逸る気持ちを抑えて、焦らず、「譲る人」と握る努力をするべきだということ。
星野佳路氏も、父である嘉助氏の「お別れの会」で、「ごあいさつ」にこのように書かれています。
父から私への事業継承は決してスムースなものではありませんでした。若く未熟であった私は、父の経営手法に強く反発し、父子で覇権争いを展開する時期もありました。自分が正しいと思っておりましたが、結果的に事業が今でも継続できていることは、父が長期的な視野で同族会社の良識を発揮したからなのです。 (同書p.414)
今から振り返ってみれば、握る余地はあった、ということなのだと思います。
そして、「譲る人」も、「継ぐ人」との並走期間に入った以上、この期間が終わると同時に自分は退くのであり、その後は「継ぐ人」に委ねざるを得ないということを肝に銘じる必要があります。このことは本当に大切なのですが、実際には非常に難しいのです。(詳しくは次回に解説いたします。)
b)自分の経営チームの編成に着手する
「編成する」ではなく、「編成に着手する」というところがミソです。先の長い仕事の、第一歩と考えることが大切です。
「継ぐ人」としては、それまでの社内での歩みの中で自分を支えてくれた人や、自分に共感してくれた人を登用して経営チームをつくり、早速動きだしたい気持が強いかと思います。ただ、そこには落とし穴があります。
まずはチームの年齢の問題。「継ぐ人」の思いのままにチームを組むと、「継ぐ人」よりも若いメンバーが中心になりがちです。それはそれでエネルギーがあって良いのでしょうけれど、反面、現時点で会社を支えているベテランが疎外感を感じることになりかねません。「継ぐ人」にそのつもりはなかったとしても、最悪の場合には社内に世代による分断を招いてしまうおそれが生じます。
もうひとつの落とし穴は、実力の伴わない「取り巻きチーム」をつくってしまう危険性があること。「継ぐ人」が掌握できている社内人材はまだまだ限られたものであるはずですので、結果として偏ったチーム編成になってしまうリスクがあります。
さらに悪いケースとして想定されるのは、邪心を抱く人が「継ぐ人」に取り入ってしまうことです。世の中、善人ばかりではありません。ありがちなのは、「譲る人」が率いる現体制下で不当な扱いを受けていると感じている人たちが、新体制での巻き返しを狙って「継ぐ人」へ取り入るというケースです。「譲る人」と「継ぐ人」の関係がうまくいっていなかったり、コミュニケーションが悪かったりすると、この類の人々につけこまれてしまいます。
では、どうしたらよいのでしょうか。
ここでも答えは、平凡に聞こえるかもしれませんが、「譲る人」と「継ぐ人」がしっかりと「握る」ことです。
「継ぐ人」は、どうしても自分とともに走ってもらいたい人たちを選び、まずは「譲る人」の目から見た彼らの評価に耳を傾けるべきです。「譲る人」はできる限り「継ぐ人」の意向を理解するとともに、人事などの声を採集した上で、ダメなものはダメとはっきりさせる必要があります。
ここでも「継ぐ人」は焦ってはなりません。「継ぐ人」にとっては、時間はあるのです。
「譲る人」は、まず自分と一緒に経営の第一線から退く幹部を定め、この人たちには自ら説得して納得してもらわなければなりません。これは「継ぐ人」にはいかにも荷が重いので、「譲る人」の大事な仕事となります。
つぎには「継ぐ人」を支えてほしい有能な人材を選び、この人たちのひとりひとりについての評価を「継ぐ人」と共有し、経営チームを編成します。ここで気をつけてなければならないのは、「譲る人」にとって使いやすい人材は、必ずしも「継ぐ人」の意をくんで支える人材と重ならない、ということです。間違っても、自分のお気に入りの人材だけを「継ぐ人」に押し付けるようなことがあってはなりません。
「譲る人」が創業経営者である場合、「継ぐ人」の経営チーム編成は難しくなります。社内の求心力がカリスマである「譲る人」に集中してしまっているからです。この困難な仕事を、実に巧みに、さりげなく乗り切ったのではと私が睨んでいるのが、いままで何回も取り上げている「ジャパネットたかた」創業者である高田明氏です。以下、「継ぐ人」である高田旭人氏による『ジャパネットの経営』(日経BP社刊)からご紹介します。
事例:ジャパネットたかた
2012年2月、旭人氏からの提言を受けた明氏は東京オフィスの開設を決断し、その差配を副社長に昇格させた旭人に任せました。
僕は当初、仕入れとインターネット関連の部署のみ佐世保から東京へ移管しようと考えていましたが、父の発案で東京にもスタジオを設置し、テレビ制作部門の半分も佐世保から移すことに決まりました。父は東京オフィスには基本的に関与せず、副社長となった僕に一任しました。
東京オフィスの開設以降、ジャパネットの仕入れ部門は佐世保から東京に移り、取り扱うほぼすべての商品の選定を担うことになりました。(同書p38)
この時点で、ジャパネットの競争力の源泉であり、社内の人材を集めているバイヤー部隊を、「継ぐ人」である旭人氏の指揮下に置いたことになります。
これだけでも巧みなのですが、私が明氏の凄さを感じるのは、次の一手です。東京オフィス移転からわずか4ヶ月後、2012年12月のことでした。
「来期、過去最高益である136億円を更新できなければ社長を辞める」と宣言したのです。社内も取引先も騒然としました。こうして迎えた2013年、父と僕の勝負は、東京オフィスと佐世保本社の勝負に形を変え、火花を散らすようになりました。
東京オフィスを構えた時に、テレビ制作部門の半分が佐世保から移ってきました。父が佐世保で地上波のテレビ通販番組の制作を全面的に仕切り、東京は若手が専門チャンネルの番組を制作し、どちらがより多くの反響があるかを競い合うことになりました。(同書p43)
ジャパネットにとってのオールドメディアである地上波は佐世保、新しい専門チャンネルと、加えて成長分野であるインターネットが東京という住み分けになったところがポイントです。
社内での創業者・明氏のカリスマ性は圧倒的であったため、何も手を打たなければ旭人氏のリーダーシップの確立と、彼を支えるチームの編成には時間がかかったはずです。しかし、この「親子対決」という妙手により、今後のジャパネットを担う東京組は、否応なしに「継ぐ人」(旭人氏)を支えて奮闘することになったわけです。
2013年の業績は過去最高益となりました。旭人氏を支える体制が整ったことを見据えて、明氏は2013年の「大望年会」で、「社長を務めるのは長くてあと2年」と宣言し、2015年に1月に社長を退任されました。「お見事!」と言うしかありません。
さて次回は「譲る人」にとっての並走期間の難しさについてご案内したいと思います。一般的には経営者としてのスタートを切る「継ぐ人」の方が大変であると思われがちですが、本当は「譲る人」の方が難しいのです。それは、この並走期間は、「譲る人」にとって、リタイアへの助走期間であるからです。「譲る人」の内面的な葛藤たるや、たいへんなものです。このあたりをじっくりとご説明します。
では次回に。