第三章第四節の事例

これまで申し上げてきたように、「継ぐ人」が社外で「他人の飯を食う」という経験を積んで継ぐべき会社に入ったあと、つぎの4つのステップを踏むのが理想であると私は考えています。

 

A)現場で汗をかく

B)辺境で成功する

C)全社を俯瞰する

D)主力事業の指揮をとる

 

前回は4番目の「D)主力事業の指揮をとる」についてご説明しました。このステップは「継ぐ人」にとって、経営者になるための準備の総仕上げにあたります。

 

ここで達成すべきことは大きく二つあります。ひとつはもちろん、主力事業で実績をつくること。もうひとつは、社長になる準備を整えること。

 

今回はこの二つについての事例をご紹介します。本当は私が今まで直接手がけてきたケースをご案内したいのですが、守秘義務があるため控えざるを得ません。そこで、今回も公刊されている著作などの公開情報を使うことをご了解ください。

「主力事業で実績をつくる」事例〜ジャパネットたかた

第三章第四節でも触れましたが、「ジャパネットたかた」の事業承継は、近年を代表する成功事例のひとつということができます。今回も、高田旭人社長の「ジャパネットの経営」(サイバーエージェント社)を参照しつつご説明しますが、ここで際立つのは「譲る人」である高田明氏によって打たれた、周到な布石の妙です。

「辺境」としてのコールセンター、そして物流センター立ち上げで実績を上げた旭人氏は2010年1月に佐世保の本社に戻ります。明氏は彼に商品開発本部とインターネット企画制作本部を任せました。「全社を俯瞰する」ポジションにつけたわけです。佐世保に本社があるという制約に危機感を抱くようになっていた旭人氏は、やがて東京オフィスの開設を進言します。

新たな魅力的な商品を掘り起こす上でも、東京にオフィスを開設するメリットは非常に大きいはずです。変化の激しい時代、何よりもスピードを上げないとお客様の要望には応え続けられません。だから東京に行くべきだと思い、父にそう進言しました。それが2012年2月のことです。(同書 p37)

明氏はまるで進言を待っていたかのように(実際、待っていたのではないかと思いますが)即決し、猛スピードで準備を進め、8月には東京オフィスを始動させました。しかも、新設された東京オフィスの機能は、旭人氏の進言を大きく上回るものでした。

僕は当初、仕入れとインターネット関連の部署のみ佐世保から東京へ移管しようと考えていましたが、父の発案で東京にもスタジオを設置し、テレビ制作部門の半分も佐世保から東京へ移すことに決まりました。父は東京オフィスには基本的に関与せず、副社長となった僕に一任しました。

 

東京オフィス開設以降、ジャパネットの仕入れ部門は佐世保から東京に移り、取り扱うほぼすべての商品の選定を担うことになりました。(同書 p38)

ここで明氏は「継ぐ人」である旭人氏が「主力事業の指揮をとる」体制を整えたわけです。明氏の手腕はここからさらに冴えを見せます。

前回私は、「主力事業の指揮をとる」ことが大切である理由として、次の3つを挙げました。

a)「継ぐ人」本人が自信を得る

b)社内のキーパーソンたちを掌握する

c)「譲る人」が「継ぐ人」の現時点での力量を把握する

明氏は東京オフィスを旭人氏に任せることにより、テレビ制作部門、仕入れ部門、そして将来の成長領域であるインターネット部門のキーパーソンを、旭人氏の指揮下に置いたことになります。(b)のための布石です。

そして東京オフィス開設から4ヶ月後の2012年12月、明氏は、さらに大胆な布石を打ちました。

「来期、過去最高益である136億円を更新できなければ社長を辞める」と宣言したのです。社内も取引先も騒然としました。

 

こうして迎えた2013年、父と僕の勝負は、東京オフィスと佐世保本社の勝負に形を変え、火花を散らすようになりました。東京オフィスを構えた時に、テレビ制作部門の半分が佐世保から移ってきました。父が佐世保で地上波のテレビ通販番組の制作を全面的に仕切り、東京は若手が専門チャンネルの番組を制作し、どちらがより多くの反響があるのかを競い合うことになりました。

 

結果が数字で如実に現れるので、東京と佐世保の間にいつしかライバル意識が芽生え、真剣勝負になりました。(同書 p41)

将来を担う若手のキーパーソンたちは、旭人氏の下で否応なしに結束し、旭人を支えるようになったわけです。

そしてこの勝負はジャパネットにとって吉と出ました。

2013年12月期の売上高は1423億円、経常利益154億円と、過去最高益を達成。父の「社長、辞めます」宣言はいったん白紙になりました。 (同書 p44)

旭人氏も、十分に自信をつけたことでしょう。そして、この「真剣勝負」の中で旭人氏の「継ぐ人」としての力量を把握した明氏は、仕上げの一手を打ちました。

こうしていったんは「社長、辞めます」を撤回した父でしたが、この年(2013年)の年末に開催された「大望年会」で、父は「社長を務めるのは長くてあと2年」と宣言しました。 (同書 p45)

それからまる1年後の2015年1月、明氏は旭人に社長を譲りました。このとき明氏は会長に就任することなく、すっぱりと退社しています。ただし、タレントとしてテレビ通販番組へのレギュラー出演を続けましたが、それも2016年1月まででした。(この引き際の見事さについては、第5章で触れる予定です。)

「社長になる準備を整える」事例〜スノーピーク

前々回にも事例としてご紹介しましたが、スノーピークも最近の事業承継のモデルケースと言いうるものでした。「でした」と過去形で語らざるを得なくなってしまったのは本当に残念です。

二代めとはいえ実質的には創業者である山井太氏は、娘の梨沙氏が「辺境」であるアパレル事業の立ち上げに成功した後、「全体を俯瞰する」ポジションである企画開発本部長につけました。そして10ヶ月後の2019年1月、スノーピークを承継したいという梨沙氏の意向を確認した上で、副社長に任命。太氏がアメリカでの事業展開に注力する中で、梨沙氏は日本国内の主力事業の指揮をとりつつ、「社長になる準備」を開始しました。

まず彼女が着手したのは企業理念の改訂でした。もともと、スノーピークには「譲る人」である太氏が掲げたミッションステートメントがありました。

キャンプ事業を立ち上げてすぐ、1988年にそれまでスノーピークには存在しなかったミッションステートメント「The Snow Peak Way」を作った。明文化することで進むべき道が明確になり、自分を含め社員それぞれが同じ方向に向かうことで、キャンプという新しい核となる事業をつくることができた。 (「野生と共生」(山井梨沙著) に引用されている太氏の言葉)

「継ぐ人」である梨沙氏は、このミッションステートメントの改訂にスノーピークの将来への自らの思いをこめました。

(ミッションステートメントの)一節に、「私達は自らもユーザーであるという立場で考え、お互いが感動できるモノやサービスを提供します」とうたい、以来、市場価値を創造してきました。その後、2019年に約30年ぶりの改訂をしました。

 

スノーピークの製品でどんな体験をしてもらうのか、その先にどんなライフバリューを生み出すのか。そこで「私達は自らもユーザーであるという立場で考え、お互いが感動できる体験価値を提供します」と変えました。製品を通して体験価値を創造し、あらゆる人に、人間もひとつの自然だと気づく体験を広げていけたら、人生の価値はどこまでも高めていけるはずです。 (「大事なことは、全部キャンプが教えてくれた」山井梨沙著 p21)

ここで大切なのは、この改訂が太氏が社長である間に梨沙氏のイニシアチブによって成されたという点です。「モノやサービスの提供」から「体験価値の創造」へは大きな進化であり、転換です。社員に対して、これからの梨沙氏の経営方針が、ちゃんと太氏のそれの延長線上に載っていることを示すことにより、社員の不安の可能性の芽を摘むことができたわけです。

梨沙氏は自分に経営バックグラウンドが無いこと、そして自分の経営スタイルが太氏のようなトップダウンとは異なったものになるであろうことを十分に自覚していました。

私は父のようにトップダウンでリーダーシップを発揮するタイプではありません。父がサメ型の経営スタイルだとすれば、(私は)7割がボトムアップのイルカ型経営。中心で泳ぎながら360度を囲む仲間に目を配り、仲間たちと一緒に行動し、ゴールを目指します。 (同書 p 41)

この自覚とともに梨沙氏が打った次の手は、行動指針の策定でした。

(それぞれの社員の)作業が世の中にどう貢献できるか。あるいは、ユーザーのどういう価値につながっているのかということを考えること。これを仕事のプロセスに加えるだけで、主体性が変わってきます。これを社員皆に伝えたい。そこでスノーピークパーソンとしての行動指針をつくるプロジェクトを立ち上げました。2019年、社内にリリースしたのが「心の三か条」と「行動の六か条」です。(同書 p33)

ここまで「社長になる準備」を整えて、2020年3月に梨沙氏は社長に就任しました。社長としてスタートした時点で、自分が目指す経営の姿、社員への期待が全て明らかになっていました。しかも、「譲る人」が全面的に同意し、バックアップする姿勢も明確に示されていました。お見事、の一語に尽きます。

梨沙氏の指向するマネジメントスタイルは、スノーピークの規模の拡大と、意欲的な多角化展開を見据えたものでもありました。

経営者として、私が特に気を使っているのは「言語化」の部分です。(中略)社員数が100人の時には意図も隅々まで伝わりやすく共通の認識で動けていたものが、600人体制となるとそうはいきません。伝えたいメッセージは誰もがすぐに理解し腑におちる言い方に変えるなど、共通言語自体をアップデートしていく必要があります。 (同書 p 31)

繰り返しになりますが、社長に就任するまでの時間に万全の準備を整えたことがポイントです。社長になってから着手するのでは明らかに遅いのです。

ところで、これは余談になりますが、梨沙氏がタトゥーをしていることを揶揄する向きがあります。でも、彼女のタトゥーが何だかご存知でしょうか? 実は聖書の言葉なんです。「野生と共生」には次のようにあります。

やっと自分なりに博愛の心を解釈できるようになった時、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉を、ヘブライ語でタトゥーに刻んだ。これからも、心に刻まれた自然や人への愛を忘れずに生きていこう。

なんとも惜しいですよね。

さて、第三章「バトンタッチの準備~社長の座を継ぐまで」に多くの紙幅を割いてきましたが、今回で締めくくりとなります。次回からは、「第四章並走期間のマネジメント~「譲る人」と「継ぐ人」の関係性」に入ります。実際の事業承継ではこの局面で揉めることが多く、とくに「継ぐ人」にとっては試練の時であるわけですが、この期間をどうすればうまく走り抜けることができるのか、じっくりとご説明いたします。

この記事を書いた人

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元永 徹司

ファミリービジネスの経営を専門とするコンサルタント。ボストン・コンサルティング・グループに在籍していたころから強い関心を抱いていた「事業承継」をライフワークと定め、株式会社イクティスを開業して17周年を迎えました。一般社団法人ファミリービジネス研究所の代表理事でもあります。

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