カーチュン・ウォンの底知れぬ才能に戦慄した夜:読売日本交響楽団第607回定期演奏会

現時点で世界的に将来を嘱望されている指揮者といえば、グスターボ・ドゥダメル(40歳、ヴェネズエラ)、ヤクブ・フルシャ(40歳、チェコ)、クラウス・マケラ(25歳、フィンランド)、アンドレア・バッティストーニ(33歳、イタリア)、そしてカーチュン・ウォン(35歳、シンガポール)といったところでしょうか。

私は幸いにもドゥダメルを除いて実演に接していますが、この中でのイチオシは、カーチュン・ウォンです。今回の読響との演奏会によって、その才能の底知れなさにあらためて戦慄しました。

この日は本来であればシルヴァン・カンブルランが振る予定でしたが、コロナ禍で来日できないためにカーチュンが代役で登板。プログラムの後半は彼の意向で差し替えとなりました。

そのプログラムはというと、前半に細川俊夫の「冥想ー3月11日の津波の犠牲者に捧げる」と、デュティユーのヴァイオリン協奏曲「夢の樹」(ソロは諏訪内晶子さん)。後半にマーラーの「葬礼」と交響曲第10番のアダージョ。マーラーの2曲は続けて演奏されました。

細川俊夫:「冥想ー3月11日の津波の犠牲者に捧げる」

私は初めて聴いたのですが、とても怖い曲でした。東京で震度5弱に接しただけの私でさえ、あの日の感情が甦るのを覚えて恐怖でした。実際に東北で体験された方々は耐えられないのではないでしょうか。それほどまでの、おそろしいばかりの真実味に溢れた曲で、作曲者の力量には感嘆です。でもまた聞きたいかと問われるとそれなりの覚悟が必要ですね。

ここまでのインパクトを与えたのですから、演奏も当然素晴らしかったということになります。終曲後、ホールにはずっしりとした重い沈黙が残りました。ヨーロッパだと、鎮魂の演奏の後には拍手をしないという伝統がありますが、この曲の演奏後もそれがふさわしかったのではないでしょうか。

デュティユー:ヴァイオリン協奏曲「夢の樹」

この曲も初めて聴きました。美しい。柴沼純子さんの解説文に導かれて、楽しむことができました。カーチュンの指揮はソリストの諏訪内さんは「樹」になぞらえてか、緑のドレス。いつもながらの美貌が引き立ち、迫力がありました。超絶技巧はもちろんなのですが、表現の引き出しも多彩で、感心しました。アンコールはなし。

マーラー:「葬礼」、交響曲第10番のアダージョ

「葬礼」は実質的には交響曲第2番の第一楽章。冒頭の部分から、カーチュンの音作りに唸らされました。あそこでコントラバスの強奏のあと、木管をへてホルンに上がっていく際に、ショルティやバーンスタインのように劇的に吹き上げるのではなく、むしろ和音を冠をかぶせるかのように置いて、今までに聴いたことのない響きを生み出してみせたのです。その後も、非常に細かい仕掛けが披露されるのですが、あざとさは感じません。むしろ、今まで私たちは何を聴いていたのだろうか?と思わせられるのですよ。それが続いていきます。

私たちはショルティやテンシュテットに代表される劇的な演奏や、あるいはバーンスタイン、ベルティーニ、インバルのユダヤの血を感じさせる演奏に親しんできた訳ですが、カーチュンのアプローチはもしかすると全く新しい地平を開く可能性があります。

レヴァインが登場したとき、吉田秀和先生が新譜の批評で、「今までよく歩いていた道なのに、あそこにこんな窓があったのか、あの屋根はこんな形だったのか、と思わされる」という趣旨のことを書いておられたことを思い出します。カーチュンの場合、私が感じたのは、「はて、よく知っている道だと思って歩いていたけれど、これは実は違う道なのではなかろうか」ということでした。大げさに言うと、今まで私たちが聴いていたマーラーは、本当のマーラーだったのか?を問うていたのではないかと。私の買いかぶりかなあ。

作曲家であるカーチュンは、マーラー演奏の伝統をいったん横に置いて、スコアから響きの可能性を見つけようと試みているのではないでしょうか。そして、そのイマジネーションが非常に豊か。 結果、彼が兄事しているサロネンを連想させる演奏でもありました。(サロネンは2番を録音していませんが。)

今後のカーチュンには注目です。特にマーラー。そして、いずれは手がけるであろうブルックナーがどうなるか。楽しみです。(12月に日フィルとマーラーの5番を演る筈ですので、今からワクワクですね。)

オケについて

カーチュンの指揮に十全に応えた読響、お見事でした。卓越したアンサンブル。なかでもオーボエの金子さん、ホルンの日橋さん!鈴木さん率いるヴィオラセクション、実に素晴らしい。今回、リハは4日だったそうです。それでこのレベルまで持ってくるのですから、読響も凄い。

終演後、オケが起立せずに足を踏み鳴らして指揮者を讃える「儀礼」は、通常は1回。でも、この日は2回。私は長らく演奏会に通っていますが、この儀礼が2回だったのは、近年ではクラウス・マケラの都響(そして日本への)デビューのときだけです。ここでもカーチュンへの期待がうかがえますよね。

私としては、現時点での今年のベスト演奏会でありました。

この記事を書いた人

元永 徹司

ファミリービジネスの経営を専門とするコンサルタント。ボストン・コンサルティング・グループに在籍していたころから強い関心を抱いていた「事業承継」をライフワークと定め、株式会社イクティスを開業して12周年を迎えました。一般社団法人ファミリービジネス研究所の代表理事でもあります。

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