3つの対比が際立った巨匠ラザレフの至芸〜日本フィルハーモニー交響楽団第705回東京定期演奏会

現在の東京の楽壇で聞き逃すべきでないものの一つは、アレクサンドル・ラザレフが振るショスタコーヴィチ。ようやく風邪から回復したので、サントリーホールまで。

ホールの外のカラヤン広場ではロールス・ロイスの展示会。伊丹十三のエッセイの中に、ロンドンで成功した俳優がロールス・ロイスを買いに出かけたところ、慇懃に「では紋章はどこにお入れいたしましょうか?」と尋ねられて退散した話がありましたっけ。そんなロールス・ロイスが展示(即売)会とは…

 

曲目は前半がグラズノフの交響曲第8番。 後半がショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」。 指揮はロシアの巨匠、アレクサンドル・ラザレフ。

このプログラムには3つの対比が組み込まれています。

1)革命前 vs 革命後
グラズノフの曲が仕上がったのは、まだ帝政ロシアの時代です。ショスタコーヴィチは、もちろん革命後を代表するロシアの作曲家。

2)標題なし vs 標題付き
ショスタコーヴィチの12番は、曲自体に「1917年」という標題が付けられているだけでなく、各楽章にも標題が付いています。

3)師匠 vs 弟子
ショスタコーヴィチはサンクトペテルブルグ音楽院で、グラズノフの愛弟子でした。

 

グラズノフ: 交響曲第8番

 

グラズノフの作品が日本のオーケストラのプログラムに入ることは珍しいと言えます。 正直、人気は無いのです。 ある意味、あまりにも技巧的であって、われわれ素人が真価を味わうことは難しいのかもしれません。

ロシアでは大作曲家としての地位が保たれているとみえて、ロジェストヴェンスキー、スヴェトラーノフといった大指揮者が交響曲全集を完成させています。

日本でのグラズノフの紹介者は朝比奈隆さんでした。彼の京大オケでの師匠であったメッテルさんは亡命ユダヤ人で、グラズノフの弟子でした。

直弟子から学んだ朝比奈さんは、この8番の録音を残しています。日本人指揮者が日本のオケを指揮した、唯一のグラズノフ作品の録音です。(面白いことに、尾高忠明さんはB B Cウェールズ響を指揮して全集を完成しています。ほとんど知られてはいませんが。)

グラズノフの音楽的な能力は、まさに天才のそれでした。 ヴォルコフによるショスタコーヴィチ回想録によれば、次のようであったとのことです。

 

才能のある者、平凡な者、無能な者、どうしようもない者といったすべての作曲家のことを、そして彼らの過去、現在、未来の作品のすべてのことを記憶していた。

 

志願者は自作のピアノ・ソナタを引いた。グラズノフはそれを聞くと、物思いに沈みながら言った。「記憶違いでなければ、あなたは二、三年前に音楽院に入学したのでしたね。あのときの、これとは別のソナタには、なかなか良い第二主題がありました。」 こう言って、グラズノフはピアノに向かってすわり、不幸な作者が以前に作ったソナタの一部をかなり長いこと弾き続けた。

 

交響曲第8番。 この曲はやたらと音符の詰まった曲で、よく知っていないと、とてもではないけれど振れないと思います。

全般的には悲壮感の薄い明るい曲で、そう、ニュールンベルクのマイスタージンガーの前奏曲を交響曲に拡大したような趣き。

この曲を聴いて感動し、涙を流す人はまずいないでしょう。 感動する人があるとすれば、それは作曲技法についてであって、私のような素人ではありません。

しかし、面白く聴きました。巨匠ラザレフ、さすがです。彼のように知り尽くした人が振らないと、この曲はもっさり聴こえてしまうはず。堪能しました。

 

ショスタコーヴィチ: 交響曲第12番「1917年」

 

いまでは偽書とされているヴォルコフの「ショスタコーヴィチ回想録」。しかし私は、ヴォルコフが直接ショスタコーヴィチから聞いたというところには偽りがあるものの、中身はかなり真実なのではないかと考えています。そう考えないと納得できない部分が多々あるのです。

そのなかの一つが、この有名な部分。

 

わたしの交響曲の大多数は墓碑である。わが国では、あまりにも多くの人々がいずことも知れぬ場所で死に、誰ひとり、その縁者ですら、彼らがどこに埋められたかを知らない。わたしの多くの友人の場合もそうである。メイエルホリドやトゥハチェフスキイの墓碑をどこに建てれば良いのか。彼らの墓碑を建てられるのは音楽だけである。

 

この1917年もそういう曲。第4楽章の標題は、時の絶対的専制者であるスターリンにおもねって「人類の夜明け」とされていますが、響き渡るのはシニカルな音楽です。この曲も、何人かの墓碑なのでしょう。

ですので、この曲は(も)、ソヴィエト・ロシアを経験した指揮者で聴きたいと私は考えています。切迫感が違うからです。

ラザレフのショスタコーヴィチは、どの曲を聴いても「切れば血が出る」ような響きがします。これぞショスタコーヴィチというような。今日の演奏も、素晴らしいものでした。

 

オケについて

 

木管は真鍋(fl)、杉原(ob)、伊藤(cl)、鈴木(fg)。 いずれも見事なソロでした。 クリストフォーリ(tp)、パケラ(timp)は入神の域。 ホルンは読響の久永さんがトラで吹き、立派でした。 ラザレフが振る時の日フィルは凄いですよ。 みなさま、お試しあれ。

この記事を書いた人

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元永 徹司

ファミリービジネスの経営を専門とするコンサルタント。ボストン・コンサルティング・グループに在籍していたころから強い関心を抱いていた「事業承継」をライフワークと定め、株式会社イクティスを開業して17周年を迎えました。一般社団法人ファミリービジネス研究所の代表理事でもあります。

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