11月22日は「いい夫婦の日」。 それはそれとして洛西の地、太秦にある広隆寺では、平安時代から続いている一年に一度のお祭が行われる日です
私は3年前にも行ったことがあるのですが、今年は特別な意味(後述します)の年なので、仕事を調整して太秦の地まで出かけてきました。
広隆寺ではなんといっても弥勒菩薩半跏思惟像が有名です。なにせ、記念すべき国宝第一号ですから。お寺の山門の横にも、このようにお写真が掲げられています。
でもこの有名な弥勒菩薩像は、広隆寺の本尊ではありません。本尊は聖徳太子像で、太子が33歳のときの姿を映したといわれているものです。
この像は秘仏とされ、年に一度、11月22日にだけ公開されます。この日が聖徳太子の命日であると伝えられているからです。
さすが秘仏といわれるだけあって、いろいろ工夫して検索しても、この本尊の画像を見つけることはできませんでした。広隆寺が出している出版物にも、この本尊の写真はありません。つまり、実際に11月22日に広隆寺に足を運ばないと見ることはできないのです。
この本尊は面白いことに冠をかぶり、束帯を身につけています。正確には黄櫨染御袍(こうろぜんごほう)と呼ばれる束帯で、歴代の天皇が即位の大礼で身につけたものを、その天皇の在位の期間にわたって身につけているのです。
現在の御袍は今上陛下がお召しになったもの。来年には新しい御袍が着せられるので、今のお姿を拝観できるのは今年が最後ということになります。これが今年が特別である理由です。
本尊は上宮王院太子殿に安置されています。
太子殿は広隆寺の、まさに真ん中にあります。
今日は祭礼なので、幕が張り渡されて綺麗でした。
太子殿の内陣は薄暗くて、目が慣れるのに時間がかかります。 奥まったところに大きな厨子が開扉されていて、その中に衣冠束帯の像を拝することができました。
文献によれば像の身長は144センチ。少し小柄ですが、御袍をまとわれてのバランスの悪さは感じませんでした。
写真は一切存在しないのですが、写し絵のお札があります。
拡大してみましょう。たしかにこんなお姿なのですが、実際にはちょっと怖い感じがあります。
この像は御袍をとると、当時の貴族の下着の姿でつくられているという説があります。つまり、最初から御袍を着せかけるように作られた、ということになります。
古代史の知識があると、そこに「怖さ」があることがわかります。ご説明しましょう。
聖徳太子は実在しなかった、というのが歴史学では定説になりつつあります。最近の教科書では、「厩戸王(うまやどおう)」と記されることもあるようですね。モデルは存在したかもしれないが、実在人物ではないということです。
ここからは異端の説になりますが、聖徳太子=蘇我入鹿 という説があります。詳しくは「聖徳太子は蘇我入鹿である(関裕二著)」などをお読みいただきたいのですが、異端とはいえ、非常に論理的で整合性のある説です。
この説では蘇我入鹿は大王(=天皇)であったという立場をとります。この蘇我王家をクーデターで打倒したのが中大兄皇子、のちの天智天皇。いわゆる大化の改新ですね。最近では「乙巳の変」と呼ぶことが多いのですが。
新羅と親交を深めようとする蘇我王朝を、親百済である中大兄皇子が転覆させたという構図で、この後、天智天皇は百済を救うために半島に出兵し、白村江の戦いで大敗を喫することになります。
天智天皇の陰謀のパートナーである中臣鎌足の息子が藤原不比等。彼こそが藤原氏による摂関政治の基本形を設計した人物です。この不比等が実質的に編纂したのが日本書紀で、この中で蘇我王朝の功績の部分を「聖徳太子」という虚像に仮託し、その一方で実際には大王であった蘇我馬子、入鹿の親子を大悪人として描いたわけですね。
法隆寺は聖徳太子=蘇我入鹿と、のちに藤原氏の陰謀の犠牲となった長屋王を鎮魂するための寺で、実際に災禍が藤原氏を見舞うとき、彼らは法隆寺に手厚く寄進して祟りを避けようとしてきました。
広隆寺は聖徳太子=蘇我入鹿の側近であった秦河勝が建立した寺で、ここに太子33歳の像があるというのは、鎮魂の匂いがします。
この像自体は1120年に広隆寺に寄進されたものなのですが、歴代天皇が即位の大礼のときに身につけた衣冠束帯を着せかけるというのは、王権を簒奪したことによる祟りを恐れての鎮魂であると考えられるのではないでしょうか。
「蘇我入鹿よ、あなたは冥界で大王に即位されました。なので、どうか祟らないでください。」と言うように。
上宮王院太子殿の奥でほのかな灯りに照らされる太子像は、仏像というよりも鎮魂のための人形(ひとがた)に見えました。やっぱり、ちょっと怖い感じでしたよ。