時間に余裕があるときの私の楽しみのひとつは、本屋を彷徨うこと。予算を諭吉1枚と決めて、ふだんは足を向けないコーナーにも踏み込み、ウロウロします。面白そうだと思ったら、少々トンデモ本の匂いがあっても購入します。この頃の出版事情では初版で絶版ということが多々あり、二度と遭遇しない公算が大だからです。この本も、そんな彷徨の際に見つけた一冊です。
山階宮というと、山階鳥類研究所しか思い浮かばない私。それなりに幕末史あたりについては読み込んでいたつもりですが、中川宮や有栖川宮はともかく山階宮とは? というのが率直なところでした。
しかし、この本を読んで認識が変わりました。山階宮晃(やましなのみや あきら)親王、とんでもなく面白い人生を歩まれた方でした。
宮の生い立ち
宮が生まれたのは1816年。父親は伏見宮邦家親王ですが、なんとこの時15歳で正妃もいなかったため、祖父の伏見宮貞敬親王の第8子として届け出がなされました。この届け出が本来の形(邦家親王の長男)に修正されたのは73年後の1889年というのですから、なんというか、お公家さんの世界も複雑なものがありますよね。
生後数ヶ月の時点で勧修寺門跡となることが定められ、3歳になるのを待って伏見宮邸を出て勧修寺に入られました。以降は真言宗の僧侶としての教育を受け、済範法親王と呼ばれることになり、23歳の時点で「一身阿闍梨」という、僧侶としての最高位を宣下されています。順調に法親王としての道を歩んでいるかに思われていたのですが…
駈落ちと皇族身分の剥奪
26歳のとき、済範法親王は戸籍上の妹(実際には叔母)にあたる24歳の幾佐宮(きさのみや)と、駈落ちするという大騒動を引き起こしました。二人は明石まで逃げた時点で捕まったのですが、当然ながら大問題となりました。
仁孝天皇は激怒され、宮は皇族としてのすべての特権を剥奪の上、一僧侶として東寺に蟄居することを命じられました。当時、名僧として評価の高かった海寶僧正の厳格な指導の下で、ヒラ社員ならぬヒラ僧侶として修行に明け暮れることとなったのです。
真摯な態度と修行の進捗が認められ、蟄居が解かれたのは1858年、宮が43歳のときでした。とはいえ皇族としての身分は回復されなかったため勧修寺門跡への復帰は許されず、勧修寺の裏にあった慈尊院という荒れた塔頭が与えられただけでした。
薩摩藩による皇族復帰工作と還俗
蟄居が解かれた後、宮は西洋事情の勉強に力を入れ、また乗馬を習ったりされたようです。ペリー来航は1853年、日米和親条約締結が1854年。京都は幕末の政争のただ中にあり、危機感を抱かれたのかもしれません。
当時の宮中の様子はというと、孝明天皇は頑迷な攘夷論者。天皇に対して影響力を有していた中川宮(山階宮の異母弟)も同様で、密かに開国策へ転換していた薩摩藩にとっては頭の痛い状況でした。孝明天皇を説得しようにも、その手段が無いのです。
そんなころ、薩摩藩の情報将校として京都で活動していた高崎佐太郎(のちの高崎正風)が、罰を受けて皇族身分を剥奪されているが、外国の事情に通じ、しかも開国論者である僧侶がいるという話を聞きつけ、勧修寺を訪問。孝明天皇説得のパイプ役として使えると判断し、島津久光に進言。久光は松平春嶽、伊達宗城を巻き込んで宮中に強力に働きかけ、宮の還俗と、皇族身分の回復を実現しました。1864年の正月、宮は孝明天皇の猶子となり、山階宮となりました。
孝明天皇は実は反対だったのですが、この工作が行われていたタイミングは蛤御門の変の直後で、天皇は薩摩藩の意向には反対しずらい状況にありました。
政治活動と再びの蟄居
蛤御門の変を受けての長州藩討伐を論じた廟議を皮切りに、山階宮の政治活動はスタートしました。ただ、還俗した経緯から明らかなように、宮のスタンスは開国論であり、孝明天皇、中川宮、中山大納言との溝はじわじわと広がって行きました。
そんな中で、孝明天皇を激怒させる事件が発生します。22人の公卿が参内し、長州征伐の停止と朝政改革の実行を迫ったのです。いわゆる「廷臣二十二諸侯列参事件」です。
孝明天皇はこの事件を叛逆と受け止めて22人を処分し、参内に参加していなかった山階宮にも蟄居を命じました。宮の背後での関与を疑ったからであると言われています。せっかく復帰しながらも、宮は再び活動の自由を奪われてしまったのです。
孝明天皇の崩御、そして外国事務総督就任
ところがその2ヶ月後に孝明天皇が崩御し、情勢は大きく変化します。山階宮は蟄居を解かれたばかりか、外国事務総督という重職に任じられました。
当時、外国人に会うことに抵抗が無かった皇族は山階宮だけであったこともあるのでしょうが、宮はロッシュやパークスにも面会し、パークス襲撃事件に際しては明治天皇の名代として頭を下げに出かけられたりしているのです。明治天皇が初めてロッシュやパークスの拝謁を受けた際、天皇の勅語を彼らに伝えたのは宮でした。外国事務総督としての仕事は明治元年の5月まで続いたのですが、この後、宮は新政府から退いてしまいます。
隠居と京都帰還
山階宮は明治4年に隠居願いを出しますが許されず、ようやく明治10年になって引退が認められ、京都に帰還しました。62歳のときでした。このあと83歳で薨去されるまでの20年間、宮は京都で精力的に活動されています。廃仏毀釈で荒廃した寺の復興に尽力したり、あちこちに揮毫したり、各地に旅行したり。
この本は240ページあるのですが、後半の120ページは京都帰還後の宮の行動、生活を跡付けていて、それはそれで興味深いものがありますので、関心のある方はぜひご一読を。
著者の深澤光佐子さんは、実は山階宮の玄孫にあたる方です。決して山階宮を持ち上げる「ヨイショ本」にするのではなく、膨大な資料に淡々とあたって著述を進める姿勢にはとても好感を持ちました。
山階宮自身、自分の生涯を数奇なものと考えておられたようで、晩年に自画像を日本画家に描かせています。それがこれ。
諧謔を解する方であったのでしょうね、きっと。