バッハのマタイ受難曲は言うまでもなく西洋古典音楽を代表する名作のひとつ。ただ、全曲を通すと3時間半くらいかかる大曲なので、私の場合、日常的にはCDから好きな曲だけ選ぶという横着な聴き方になりがちです。実演でちゃんと聴いたのは今までにおそらく3回。本来のタイミングである受難週に聴き通すのは今回が初めて。BCJで聴くのも実は初めて。
指揮はお父さん(鈴木雅明さん)ではなくて、息子さんの優人さんのマタイデビュー。ソリストは森麻季さんを筆頭として、安定の布陣。ステージ中央にはコンティヌオ・オルガンが設置され、この効果は絶大でした。ホールのオルガンだと距離感といい、スケール感といい、ちょっと難しいですよね。
さて、総じての感想としては、外来演奏家に頼らず、日本人だけでここまでのレベルの演奏が成し遂げられたことは驚嘆に値します。本当に素晴らしかった。
以下は印象に残った部分についての個人的な感想です。
第1曲:序
クレンペラーやメンゲルベルクといった昔の巨匠に比べると快速テンポ。でも決して重心が軽いわけではなく、綺麗なバランス。
Seht !
Wohin ?
Auf unsere Schuld
のやりとりもキレが良くてお見事。グイグイと引き込まれていきます。
第8曲:Blute nur
フラウト・トラヴェルソの美しいこと! ソプラノの悲しみと、気高さを伴う諦観。
第9e曲:Herr, bin ichs
イエスによる、「この中の一人が私を売るであろう」に対して、弟子たちが「主よ、私ですか?」と問う場面。合唱から11人がこのセリフを歌うのは、12使徒からユダを引いてのこと。珍しくもこのことが解説では触れられていませんでした。とても短い曲ですが、不安と当惑が良く表現されていたように思います。
第10曲:Ich bins, ich sollte büssen
このコラールでの音の重ね方は肺腑を抉ぐるようで、とても斬新。こういう演奏は初めて。
第24曲:イエスのレシタティーヴォ
ゲッセマネの園でイエスが祈り、父なる神との断絶を受け入れる場面。神学的にはこの場面こそがクライマックスであるべきところ。終曲近くの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」はここでの決断の結果に過ぎません。ですので、イエスの歌唱には、もう少し深く、決然としたものが欲しかったと私は思いました。
第26曲:イエス捕縛の場面
大祭司たちを連れて戻ってきたユダに対して、イエスが Mein Freund, warum bist du kommen? と語るのですが、ここはバッハがテキストに用いた聖書(カーロフ版)が誤訳しているところです。イエスはユダの裏切りによって自らが十字架にかけられることを知っているので、「わが友よ、なぜ来たのか?」と問うことはあり得ないのです。さすが、鈴木雅明さんは注を付けて、正しい訳を紹介されています。
イエスが引き立てられていった大祭司の邸宅への階段は発掘され、復元されています。
現場に立ったとき、なんとも言えない感慨がありました。
第38c曲:ペテロによる否認
個人的には、もっとも心を抉られる場面です。呪いをかけてまで主を否認してしまったペテロの悲しみたるや如何ばかりか。どうしようもない人間の弱さを、福音史家が絶唱。
エルサレムにはこの大祭司の邸宅跡に「ペテロの鶏鳴教会」が建てられています。私が訪れたときに撮った写真です。
この壁画が描いているのは、マタイによる福音書16章18節の場面ですね。蛇足ですけど。
第58a曲:イエスが十字架にかけられる場面
私が初めてマタイの実演に接したのは大学生のときで、東京カテドラル聖マリア大聖堂での演奏会でした。雪が舞う寒い日でした。イエスの両脇に重罪人の十字架が建てられる瞬間、突風によって轟音とともに大聖堂の扉が開き、雪が吹き込んできて、戰慄したことを思い出します。
第63a曲:神殿の幕が裂ける場面
神学的には極めて重要な意義を持つ箇所なのですが、バッハによる描写はやや絵画的に過ぎるところがあり、私はちょっと不満です。
第68曲:終曲
合唱はイエスに対して「安らかに憩いたまえ」と歌います。素晴らしく美しい音楽。キリスト者になる前の私は素直に感動していたのですけれど、今は率直に言ってこの曲の終わり方には違和感があります。なぜかと言うと、イエスは3日目に蘇られ、そこにキリスト者の希望があるのですけれど、この終曲を素直に聴くと、ずっと安らかに眠ることを祈っているように聴こえてしまうからです。まあ、教会暦的にはそこは復活祭がカバーするから、という理屈なのでしょうけれど。
大名曲なのですけれど、この終わり方のゆえに、信仰上、私にとっては微妙なものとなってしまって、困ってます。
演奏について
冒頭にも述べましたが、たいへんレベルの高い演奏でした。とくに福音史家(櫻田さん)は圧倒的でした。経歴から拝察するにイタリア語がご専門と思われるのですが、ドイツ語のディクションはお見事でした。森麻季さんのオーラも凄い。
アルトは男声が起用されていましたが、いずれもたいへん美しい歌唱で、敢えて男声が起用されたことに納得です。
オーケストラも素晴らしい。とりわけコンティヌオ隊は見事で、これぞ西洋古典音楽!と感嘆するばかりでした。