第一章第一節の事例:大塚家具

大塚家具事件はファミリービジネスに関わる者にとって「学びの宝庫」です。大きな論点としては「ファミリービジネスのガバナンス」、「創業者のビジネスモデルからの転換」等を挙げることができますが、今回は第1章第1節の事例として、後継者選びの観点から取り上げます。予告編で申し上げましたが、事例研究の題材はすべて公開情報(書籍、雑誌記事等)です。

参考文献

『理と情の狭間〜大塚家具から考えるコーポレートガバナンス』磯山友幸著
『大塚家具・長男の大塚勝之専務が語った「父と姉」骨肉の争いの真相』磯山友幸氏によるインタビュー 2015年3月9日
『私の哲学〜大塚久美子氏』株式会社インターリタラシーのwebに掲載されたインタビュー 2012年12月
『キャリアの原点〜大塚家具社長 大塚久美子氏(上):ドジな銀行員だった「家具や姫」』日経電子版 2016年7月21日
『キャリアの原点〜大塚家具社長 大塚久美子氏(下):「人生って思うようにはいかないけど」』日経電子版 2016年7月28日
『孤独な「家具や姫」大塚久美子の蹉跌:日刊ゲンダイDigital 2021年2月13日

登場人物

大塚勝久:大塚家具の創業者。タンス職人の息子として生まれたが職人の道を選ばず、中学卒業後タンス販売をはじめた。一代で大塚家具を作り上げた典型的な創業経営者。
大塚千代子:創業者の糟糠の妻。というより、実質的な共同創業者。社内に絶大な影響力を持つ。
大塚久美子:いわゆる「家具や姫」。勝久氏と千代子氏の間に生まれた5人兄弟の長子。幼いころから学業優秀で、創業者にとっては目の中に入れても痛くない、自慢の娘。
大塚勝之:久美子氏の1歳下の次子。姉にくらべて学業ではパッとしない、しかし両親に従順な長男。

「事件」の経緯

創業者である勝久氏が会長に退き、久美子氏を社長に据えたのは2009年のことでした。このとき久美子氏、41歳。若き「美人」社長の誕生は大きく報道されました。

再び久美子氏にスポットライトが当たったのは、5年後の2014年7月。突如、取締役会で久美子社長が解任され、勝久氏が社長兼会長に就任したのです。ただ、ここまでは「ファミリービジネスにありがちな話」だと世間では受けとめられていたと思います。実際、後継者のパフォーマンスに我慢できずに創業者が復帰してしまう例は、決して珍しくはないからです。

ところがこの「事件」はここで終わりませんでした。年が明けて2015年1月28日の取締役会で久美子氏が再び社長に選任され、勝久氏は会長に棚上げされてしまったのです。2週間後の2月13日に開催された取締役会では株主総会に向けて取締役候補リストが議決されたのですが、このなかに勝久氏と、勝之氏(久美子氏の弟)の名前はありませんでした。勝久氏は「これはクーデターだ」と激昂し、記者会見を開いて反撃に出ました。

マスコミが一斉に飛びついてこの「親子喧嘩」を報道する中で両陣営の対立はさらに激化し、決着は株主総会へと持ち込まれました。

結果はと言うと、みなさんご記憶のとおり、久美子氏が勝利し、勝久氏、勝之氏は大塚家具を退社。勝久氏は大塚家具の株式を売却し、それを原資として『匠 大塚』を設立するに至りました。

このあとの大塚家具の凋落については省略します。ただ、なんとも残念な「事件」であったという感は否めません。とくに社員の方々にとっては、災難以外の何物でもなかったことでしょう。

この「事件」が教えること

ガバナンス論はさておいて、私はこの「事件」からの学びは2つあると考えています。

ひとつは、この「事件」の遠因は後継者選びにあったということ。もうひとつは、後継者のすげ替えを軽く考えると致命的な禍根を残すということ。

まずは「事件」に至るまでの経緯を紐解いてみましょう。

「事件」の前史

2009年、創業者である勝久氏が後継社長に指名したのは久美子氏でした。しかし、それまで後継者として育成されてきたのは弟であり長男である勝之氏だったのです。ここで久美子氏と勝之氏の歩みを追ってみましょう。

久美子氏は1991年に一橋大学を卒業し、総合職として富士銀行に入社しました。その後、1994年に大塚家具へ。弟の勝之氏は1992年に名古屋の美大を卒業してすぐに大塚家具に入社していますから、社歴でいえば弟の方がお姉さんよりも先輩ということになります。

その後の姉弟の社内での履歴をまとめてみました。

(↓ 写真をタップすると、大きく表示できます。)

ご覧いただくと、後継者として処遇されていたのは勝之氏であることは明白です。大塚家具はなんといっても営業が主流の会社。旗艦店店長→営業本部長というキャリアは王道中の王道です。

「事件」後の勝之氏へのインタビューで明らかになったのですが、一族の資産管理会社である「ききょう企画」の株式も計画的に勝之氏に集中されていました。人事のキャリアパスと株式集中の2点からみて、勝久氏の頭の中にあった後継者が勝之氏であったことは明らかです。「ききょう企画」の件は社員が知り得ることではありませんが、当時の社内では、勝之氏がいずれ社長になることは誰にとっても公然の事実であったかと思われます。

久美子氏が富士銀行を退社し、大塚家具に入ったのは1994年のことでした。いわゆる大店法の規制緩和を機に業容拡大を目指していた勝久氏に頼みこまれたから、とご本人は語っておられます。それから10年間、主に間接部門を管掌して会社の仕組み作りを担ったものの、2004年に、ご本人の言によれば「セミリタイアする」ということで退職。IRと広報を専門とする会社を立ち上げるとともに、2006年には筑波大学の法科大学院に入学。この時点ではご自分が大塚家具の社長になる可能性はないと判断されていたのでしょう。

事態が一変したのは2007年5月。大塚家具が実施した自社株買いに対して、証券取引等監視委員会はインサイダー取引の法令違反が行われたとし、課徴金を科しました。ただ、監視委員会は意図的に安値で買い付けようとした意図はみられず、法令違反の認識に誤りがあったと判定したのですが、それはそれで大塚家具の間接部門の弱さとワンマン創業経営者による管理体制の甘さを印象づけることとなりました。

このとき勝久氏は64歳。65歳を迎えるのを期とし、会長に就任して実務から離れる姿勢を示してケジメをつけようと決心したとされています。しかし、予想外の激震が走ります。2008年、後継者として育成してきた勝之氏が、取締役から退任するのみならず、大塚家具を退社してしまったのです。

とある報道によれば、原因は勝之氏の結婚問題でした。勝之氏が連れて来た女性を、両親(とくに母、千代子氏)が気に入らず、絶対に認めないと宣告したことに勝之氏が反発し、「一人の女を幸せにできない男が1700人いる大塚家具の社員とその家族を守れるか」と啖呵を切って辞めてしまったとのことです。

ワンマン創業経営者にありがちなことですが、勝久氏が信を置ける人材は生え抜きの中には見出せず、勝久氏は久美子氏を呼び戻して、2009年3月の定時株主総会で社長に据えました。もともと勝久氏が久美子氏を溺愛していることは有名で、ことあるごとに自慢していただけでなく、主要な店舗の開店日を久美子氏の誕生日に合わせたりしていたと言われています。勝之氏の退社という問題が影を落としていたとしても、勝久氏にとって久美子氏が戻って来てくれたことは嬉しいことであったでしょう。

そして久美子氏には祖父以来携わって来た家具への強い愛情がありました。2012年のインタビューでも、彼女は家具への溢れんばかりの愛を語っています。父勝久氏からの復帰要請を受けて、彼女が奮い立ったことは間違いないと思われます。

一見すると麗しい父と娘による経営体制のスタートであったわけですが、実は最初から対立の萌芽が潜んでいました。勝久氏の久美子氏への期待は、いかにも創業経営者らしく、自分の経営方針を維持し、売り上げを伸ばすこと。その一方で、久美子氏は大塚家具の将来について深刻な危機感を抱くに至っていたと思われます。

久美子氏が大塚家具を離れていたのは2004年から2009年にかけての5年間です。このあいだに家具販売業界では地殻変動ともいうべき変化が顕在化していました。それは比較的低価格の、しかしセンスの良い家具を扱う量販店の台頭。2006年にはニトリが東京本部を開設して首都圏への進出攻勢を本格化。IKEAが日本での第1号店を開いたのもこの年です。一方で創業から40年に近づきつつある大塚家具では、「会員制」というビジネスモデルの陳腐化が懸念されていました。いったん身を引いて外から眺めていた久美子氏の目には、もはや予断を許さない状況にある見えたことでしょう。

社長に就任した久美子氏がまず着手したのはガバナンス改革でした。2009年の株主総会で母、千代子氏が取締役を退任。2010年には一橋大学の阿久津聡教授(マーケティング論)を社外取締役に招聘しています。ガバナンス改革については、かつてのインサイダー取引の負い目から、勝久氏もなかなか反対しづらかったのでしょうね。

徐々に地盤を固めた久美子氏がビジネスモデル改革に着手しようとした矢先に、再び思いがけないことが起こります。2011年、勝之氏が大塚家具に戻って来たのです。勝之氏にお子さんが生まれたことにより、母である千代子氏との関係が劇的に修復したことが理由と言われています。さすがにすぐに取締役に復帰するということではありませんでしたが、用意されたポストは執行役員営業担当部長。翌2012年には常務執行役員に。

問題は、このことが久美子氏の目にどう映っていたかということです。

久美子氏としては、自分が進めようとしている改革への反対勢力として再登場した勝之氏には、将来に控える危機への認識があまりにも不足していると感じたはずです。自分は会社のために父に逆らってまでも改革を実行しようと覚悟を決めているのに、弟は父に従順に従うばかり。このままでは大塚家具はダメになる、と。

ところが勝久氏は久美子氏の改革路線が自らの経営方針、とりわけ「会員制」の否定につながることが明らかになってくると、反対の立場を明確にするようになりました。そして、なんと千代子氏は、いずれは孫に大塚家具を継承することを願ってか、勝之氏の取締役復帰を要求するに至りました。そして迎えた2014年3月の株主総会。勝之氏は取締役常務執行役員・営業本部長として復帰し、久美子氏は代表取締役社長ではあるものの、営業本部長兼任を解かれ、管理部門管掌に格下げされてしまうのです。そして半年も経たない2014年7月、久美子氏は突如社長を解任されました。ここから本稿の冒頭でご紹介した「事件」が幕を上げるのです。

さて、この悲劇(とくに社員の方々にとって)から、私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

「事件」から学ぶこと

長子承継であれば…

この「事件」の底流には、優秀でありながら後継者として扱われなかった姉の、(彼女から見ると)パッとしない弟へのルサンチマンがあります。そして、自分がこんなにも会社のことを、ひいては父のことを大事に考えているのに、なぜ父はそれをわかってくれないのかという思い。

私は第一章第一節で申し上げたように、男女の別なく、長子を第一に後継者とすべきであると考えています。ですので、もし久美子氏を後継者として育成していれば、と思われてなりません。今となっては詮無いことですが…

久美子氏が学業で頭角を現し始めたのは彼女が中学受験の頃でしょうから、昭和50年代後半になります。時代的に彼女を後継者として育てるのは難しかったかもしれませんが、無理な話ではなかったと思うのです。もし後継者として指名されたなら、久美子氏は相当な覚悟を決めて精進したことでしょうし、また父・勝久氏への理解も深まったのではないでしょうか。

後継者を安易にすげ替えるのは危険である

勝之氏の突然の退社の結果として久美子氏を後継社長に据えたのは、当時の状況から致し方なかったかと思います。しかし、そうであるとすれば、2011年の復帰の際には、それ以降は勝之氏は久美子氏に従うということを明確にすべきであったでしょう。ところが実際には勝之氏を実質的な後継者候補として処遇するという過ちを犯しました。これでは社内は久美子派と勝之派に二分され、内向きな争いにエネルギーを使うようになってしまいます。本来であれば競合との戦いに使うべきエネルギーを。

余程の理由が無い限り、承継プロセスの途中で後継者をすげ替えてはなりません。それは川を騎乗で渡るときに、流れの中で馬を乗り換えるようなものです。

では、どうすればよかったのか

長子承継にしていればと言われても、そこまで過去に遡った話をされてもね、とおっしゃられる方もおられることでしょう。ごもっともです。ガバナンス論はちょっと置いておいて、事業承継についてもう少し現実的な解をお示しして、この事例研究を閉じたいと思います。それでも2009年に時計の針を戻す必要はあるのですが。

2009年に久美子氏を戻して社長に指名する際に、勝久氏は肚を割って久美子氏と話すべきでした。そうすれば、のちに久美子氏が明らかにしたカジュアル路線構想を知ることができたはずです。そして、大塚家具の将来についての久美子氏が抱く強い危機感をも。

勝久氏はカジュアル路線の子会社を設立し、その経営を久美子氏に全面的に任せるべきでした。本業については、久美子氏を勝久氏が会長としてバックアップするという前提で。どっちみち、段階的に経営の権限委譲を進めるつもりであったはずですから。カジュアル路線が成功すればよし、うまく行かずにたたむことになってもそれは後継者育成の授業料として割り切ればよかったのです。

2011年に勝之氏が戻ってきたときには、勝久氏>久美子氏>勝之氏という序列を明確にした上で、彼を本業に投入すべきでした。新規事業が成長し、それを久美子氏が切り回し、従来からの本業は手堅く勝之氏が担当するという形ができれば、勝久氏も安心して第一線から退くことができたでしょうに…

さて次回は本論に戻って、第一章第二節として「婿養子の是非」について論じます。婿養子制度は日本のファミリービジネスに特徴的な優れた制度であると一般的に理解されています。実際、優れた業績を挙げている婿養子経営者もたくさんいらっしゃいます。ただ、現在に於いて、仕組みとして優れていると言えるのか、考えてみたいと思います。

この記事を書いた人

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元永 徹司

ファミリービジネスの経営を専門とするコンサルタント。ボストン・コンサルティング・グループに在籍していたころから強い関心を抱いていた「事業承継」をライフワークと定め、株式会社イクティスを開業して17周年を迎えました。一般社団法人ファミリービジネス研究所の代表理事でもあります。

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