原田三朗「オーケストラの人々」~N響事始め

最寄り駅の連絡通路に、二か月に一度くらいの頻度で古本市が立ちます。五、六軒の古本屋さんが出店するのですが、案外掘り出し物が多く、私の愉しみとなっています。この本も、そこで出逢ったもの。

1989年に出版されたこの本には、昨年12月に第2000回の定期演奏会を迎えたN響の草創期が、七人の楽団員を通して描かれています。この七人については、著者に紹介してもらいましょう。

NHK交響楽団は、日本で最高の音楽水準にあるオーケストラだ。団員は100人以上いる。そのうち7人が6年前、55歳の定年を迎えて、N響を去った。

 

その7人は、ホルンの千葉馨、チェロの藤本英雄、堀内静雄、トロンボーンの関根五郎、ヴィオラの島田英康、佐伯峻、それにコントラバスの窪田基で、いずれも1928年(昭和3年) 生まれだ。島田を除く6人は、戦前からの日響がN響に変わった1951年前後に入団したメンバーだった。島田だけは、10年遅れて、62年になってN響に加わった。千葉や関根たちの退団とともに、N響の草創期を支えた有力団員は、すべて姿を消した。

「6年前」というのは1983年。私が本格的にコンサートに通うようになったのは1980年ごろですから、私はこの7人のN響での最後の数年に間に合ったことになります。1983年は、マルケヴィッチがはじめてN響を振った年。帰国後、急逝したので最期の来日ともなってしまいましたが。

この本がカバーしているN響の創成期については、N響プロデューサーだった細野達也さんによる「ブラボ!あのころのN響」があり、これはどちらかというと表のストーリー。対して、「オーケストラの人々」は裏面史の味わいがあります。クルト・ウェスに対しての楽員の評価とか、あの「小澤事件」についての記述はちょっと意外なものでした。

楽団員から見た「小澤事件」は、こんなふうに描かれています。

楽団員は若い指揮者をそねんでいるとか、もっとおおらかでなければならない、などという意見もつよかった。しかし、ほんとうの原因はそんな立派なことではなかった。

 

遅刻や勉強不足という、若い小沢の甘えと、それをおおらかにみようとしない楽団員、若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用だった。

ある日、練習所に朝来て、練習をはじめたが、すぐに「きょうは気分がわるいので、休ませてくれ」といってかえった。たまたま、佐伯の弟が早稲田のグリークラブにいた。「きょう、小沢が早稲田にきて、第九のコーラスの指導をやっていた」とわかった。「あいつ、N響を休んで」と薬員はいきりたった。こうして、「年末の第九だけは、小沢に振らせるな」という声がたかまった。

楽団員は悲しかった。マスコミは、若い天才的な指揮者をN響の楽員がいびって追い出したと非難した。佐伯らは、楽団員をたなに上げて、小沢を常任指揮者にした幹部の責任を追及したいところだった。

 

古い団員には、新響以来の伝統を傷つけたマネジメントへの反感も残った。また、こんな事態を招いたことをすこしも反省しない小沢の態度も不快だった。

著者は毎日新聞の論説委員。この本に独特の味わいと温かみがあるのは、著者が登場人物のひとりである関根五郎さんの弟子だからです。

三十五年も前になる。わたしは大学でオーケストラにはいった。大正時代につくられた、日本の大学では古い歴史のあるオーケストラだった。トロンボーンを吹いていた。先輩に先生を紹介してもらった。N響のトロンボーン奏者、つまりトロンボニストだ。

 

大学のオーケストラでトロンボーンを吹くことになったわたしが弟子入りした先生は、そのころ、焼け残った東京の下町の大きな二階家に下宿していた。ふとんを押入にいれると、わずかの本をならべたちいさな本棚があるだけの、殺風景な六畳の和室だった。

これ、東大オケなんです。計算すると1954年ですから、関根さんは26歳。日本はまだまだ貧しかった時代です。

先生も弟子も貧乏だった。先生は、古い楽器を修理しながらつかっていた。N響の楽器だという。自分の楽器は買えなかったのだ。わたしの楽器は、大学の古いニッカンだった。いまなら小学生だってつかわない。

 

練習する場所なんてないし、先生は下宿だったから、オーケストラの練習のないときやその前の時間に、N響の練習所の片隅でレッスンを受けた。ほかの団員が出てくるまえにやるのだが、弟子のわたしは練習がきらいで、しどろもどろの練習曲をほかの団員に聴かれるのは恥ずかしい。あまり練習所には足を運ばなかった。

四半世紀後に大学に入ってファゴットを始めた私がついた師匠は、N響の菅原眸先生でした。私は菅原先生のご自宅でレッスンを受けていたのですが、いちどだけ高輪にあったN響の練習場にお邪魔したことがあります。わくわくしましたよ。

わたしのトロンボーンの先生を、関根五郎という。わたしは、名人だと信じているけれども、オーケストラは先生を名人としてあつかわなかった。平凡なトロンボニストで、N響を定年になった。ラッパは、演奏に大変なエネルギーがいる。年をとると、上手に安くことがむずかしい。大事な歯も悪くなる。だから、定年もあるのだろうが、おどろいたことに、先生は定年になってからますますうまくなった。音がよくなったし、前よりもたかい音がでるようになった。

そんなへんてこな先生が日響に入ったのは、美空ひばりがデビューしたのと同じ年だった。その頃から日響そしてN響は変わり始めた。日本のオーケストラの成長と足並みを揃えて、先生たちも成長した。日本一のオーケストラであるN響が、国際的に見ても、オーケストラとして一人前になるまでの話を、トロンボーンの先生とその仲間を中心に語ってみたかったのだ。

この本、誰にとっても面白いとはいえないけれど、私の世代の好楽家にとっては、なんともいえない味わいがあります。出逢って嬉しい本でした。

この記事を書いた人

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元永 徹司

ファミリービジネスの経営を専門とするコンサルタント。ボストン・コンサルティング・グループに在籍していたころから強い関心を抱いていた「事業承継」をライフワークと定め、株式会社イクティスを開業して17周年を迎えました。一般社団法人ファミリービジネス研究所の代表理事でもあります。

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