終戦記念日が来ると思うこと: 新入社員の時に痛感した、「あの戦争」が無謀であった理由

今日は終戦記念日。毎年思うことを、ちょっと書いてみようと思います。

世界地図を眺めてみれば、あの戦争が無謀であったことは一目瞭然です。 しかし、私がそれを本当に痛感したのは、日本郵船の新入社員として神戸に着任したときのことでした。

神戸支店で私は「在来船」の東アフリカ航路とカリブ南米航路を担当することになりました。「在来船」というのはコンテナ船が登場する前の貨物船のことです。

私の新入社員時代には既にコンテナ船が主流でしたが、「何といっても在来船は船屋(「ふなや」と読みます)の基本だから」ということで、私は在来船の船積みに従事することになったのです。

コンテナ船の場合、トレーラーで運ばれきたコンテナを、岸壁に設置された巨大なガントリークレーンで船にどんどん積み込んでいくだけです。簡単な話に聞こえますよね? そう、簡単なんです。コンテナは世界の物流業界での、空前絶後のイノベーションでした。

在来船の場合はそうはいきません。荷物は木箱だったり、剥き出しの鋼材だったり、中古車だったり。これをクレーンで吊り上げて、カーゴホールドというバスケットボールのコートくらいの大きさのスペースに降ろして、それを頑丈に固定します。荷物はトラックで岸壁に運ばれてきたり、艀(「はしけ」と読みます)で船に横付けされてきたりするんです。

艀が横付けされているところです。

在来船が着岸するところです。この船は1万3千トンくらい。

どれだけ重い荷物を積むことができるかは、その船が備えているクレーンの能力次第です。私が新入社員の頃の在来船だと、良い船だと50トン。古い船だと20トンくらい。写真の船は、たしか25トンだった記憶があります。

このころ、ときどきアフリカ向けにコマツのブルドーザーが輸出されることがありました。15トンくらいの、そんなに重くないものであっても、在来船に積むのは神経を使う仕事でした。

艀で横付けされてくるのですけれど、荷役作業員が艀まで降りて、ワイヤーをかけ、クレーンで引っ張り上げ、それをカーゴホールドに下ろして固定します。1台積むのに30分以上かかります。

新入社員としてはじめてブルドーザーの積み付けに立ち会ったとき、私は、いかに太平洋戦争が無謀な企てであったか、ほんとうによくわかってしまいました。暗然としたといってもよいかもしれません。

というのは、こういうわけです。太平洋戦争が始まったとき、まだクレーンは一般的ではなく、かわりにデリックという荷役機を使っていました。デリックはクレーンよりも荷役に時間がかかる上に、吊り上げる能力も低いものです。

第二次大戦の当時、日本でもっとも優れた貨物船は日本郵船が所有していたのですが、そのデリック強度はせいぜい15トン。戦前の日本の主要な輸出品は絹糸でしたから、これくらいの強度でも十分であったわけです。

一方、日本陸軍の主力戦車であった九七式中戦車は自重15トン。デリック強度ギリギリです。

当時の陸軍の仮想敵はソ連でした。陸軍は国内で生産した戦車を満州へ輸送していたのですが、このときは戦車を貨車に乗せて、鉄道を使っていました。関釜海峡は鉄道連絡船で渡ります。鉄道連絡船にはレールが敷かれていて、貨車をそのまま搭載できました。したがって、太平洋の島々に向けて、戦車を積み出すということは、あまり考慮されていなかったのだと思います。

私が積んだコマツのブルドーザーは海外輸出用だったので、ワイヤーを引っ掛けるためのフックが最初から付いていました。 97式中戦車には、そんなものは無かったのではないでしょうか。さらに戦車の荷重のかかり方はバランスを欠いたものであったと推定されます。つまり、必死の努力でなんとか積める、というものであったのです。当時の一等航海士(積み付けの責任者です)の苦労を思うと涙が出ます。

そして、デリック強度ギリギリということは、アウトリーチできないのでデリック直下にしか積めません。ということは、カーゴホールドが4槽の一般的なデザインの貨物船の場合、1隻あたり8台積むのがせいぜいだということになります。

積むのはまだよいとして、下ろすのはもっと大変だったことでしょう。沖に錨をおろし、大発(軍用の艀のようなもの)に下ろすのですが、波があるとかなり大変な作業です。下手をすれば、戦車を落っことして大発ごと沈めてしまいかねません。戦車の輸送は、当時の技術水準を考えると、大変な作業であったわけです。

実際、日本陸軍が作戦を練りに練り、最精鋭部隊を投入したマレー半島/シンガポール攻略戦でも、97式中戦車は3~40台しか投入されていません。そもそも台数が少なかったということもあるのですが、何よりも運ぶことができなかったのです。

こんな状況で、よく開戦を決断したなと思わざるを得ません。ほんとうに、とんでもない話であったわけですよ。当時の関係者の心中を思うと、なんとも言えない気持ちになります。これが私にとっての8月15日の思いです。

この記事を書いた人

元永 徹司

元永 徹司

ファミリービジネスの経営を専門とするコンサルタント。ボストン・コンサルティング・グループに在籍していたころから強い関心を抱いていた「事業承継」をライフワークと定め、株式会社イクティスを開業して12周年を迎えました。一般社団法人ファミリービジネス研究所の代表理事でもあります。

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