シゴキと苛めと修行と:読後感「食う寝る坐る 永平寺修行記」野々村馨著

デザイン事務所に勤めていた30歳の男性が突然思い立って永平寺の門を叩き、そこでの1年間の経験と洞察をまとめた本。けっして内幕暴露本などではなく、真摯な考察の書です。

私の高校の後輩に、お寺の息子がおりました。お祖父様が曹洞宗の高僧とのことで、実家のお寺も繁盛しているというと変ですけれど、立派な構え。「いずれは継ぐんだよね?」と尋ねてみたところ、「ええ。でも、その前に永平寺に行かないといけないんですよね。」と暗い顔での返事が返ってきたことを妙に鮮明に記憶しています。そんなこともあり、永平寺とはどんなところであるのかずっと気になっていたので、この本を読んでみることにしました。

苛烈といってもよい7日間の通過儀礼

まずは永平寺への入山(永平寺では「上山」と呼びます)を許されるまでがたいへん。

われわれは端の者から一人ずつ大声で名乗りを上げる。全身に分散されていた力をすべて一ヶ所に集め、あらんかぎりの大声で叫んだ。

「聞こえねー」

即座に怒鳴り返される。

「そんな声しか出ねえようなやつは、修行などできんぞ!」

「お前のようなやつは、とっとと帰れ!」

もとより聞こえないはずはないのである。しかし、こういった不合理なやり取りを交わし、まずは上山する者の願心のほどを試すのだ。

8人の上山希望者の中で最後となった著者が認められたのは、もう日が傾く時間帯。でも、これはまだ序の口で、厳しい基本動作の指導が待っていました。

「何だお前は、そんな合掌しかできんのか!」

緊張と恐怖のせいか、体がこわばりモタモタしている者が、また即座に平手打ちされた。しかし彼はその瞬間、反射的に手でよけてしまったのだ。

「おい、何だその手は。何だと聞いているんだ。こら!」

怒鳴り返すと同時に、その平手打ちが何倍にも何倍にもなって彼の頬を打った。肉が肉を打つ鈍く不快な音が堂内に響く。彼の頬はみるみるうちに赤く腫れ上がった。

「いいか、よく聞け。お前らは何も抵抗できんのだ。わかったか!」

この後も、次から次へといろいろな進退が簡潔に教え込まれ、出来の悪い者に対しては容赦無く手が出、足が出た。みんな、わけがわからないまま、抵抗することを許されない自分の身の危険を感じながら、必死で覚えこもうとした。

古参に足しては絶対服従。いかなる場合であっても、古参の目を見ることは許されない。そして口にすることのできる言葉は、「はい」と「いいえ」の二言のみ。

これは伝え聞く旧陸軍の新兵いじめと同じでは?という疑問が頭をかすめますが、著者はそうではないと言います。

禅の歴史をひもといてみるまでもなく、師と弟子の関係は昔から、とかく物騒なものだった。棒でぶん殴り、蹴り、履物で頭をひっぱたく。

しかし、これらの行為を「暴力」と即断し、批判するのは早すぎる。打擲はすべて「暴力」と判断する前に、その打擲について、根底にある目的を見極めてから判断しなければならない。するとおのずと、禅の修行におけるこれらの行為の根底にある目的が、相手を傷つけることでも、痛めつけることでもないことがわかるはずである。

僕は殴られ蹴られして徹底的に叩きのめされるたびに、ちょうど模造真珠の表面がボロボロと剥がれ落ちるように気分が楽になった。(中略) もはら剥がれ落ちるものも剥がれ落ち、取り繕うものもなくなってしまうと、そこに剥き出しにされ、残されたものこそが、まぎれもない自分自身だったのだ。

その、ちっぽけな自分に気づいたとたんに、何とも言えない安堵を感じた。

すべてが修行。その結果として得られる気づき

永平寺開祖の道元の考えは、行住坐臥のすべてが修行であるというもの。著者はつぎのように説明しています。

道元の示す修行とは、超能力や特殊な瞑想でもなく、また難行や苦行でもなく、日々の行いそのものの中に見出されるものなのである。

そして食事やトイレの作法が紹介されるのですが、その綿密さは驚嘆すべきものです。細かく引用すると長くなるのでやめますが、一読の価値はあります。そしてそれが故に、様式美が得られることも納得できるのです。

結果として著者は気づくことになります。

毎日毎日が起床から就寝まで、厳格に定められた代わり映えのしない日々の連続で、それをまた何の疑問も持たず延々と繰り返す。この単調さはいったい何だったのか。(中略)人間はやはり、劇的で変化に富んだものに魅力を感じ、心を動かされやすい。そして単調なものほど軽視され、日常生活の中に埋没し、気付かずに通り過ぎてしまう。

しかし、その気付かずに通り過ぎる、日々繰り返す単調で平凡なことにこそ、人間が気づかなくてはいけない真理がひそんでいるのではないかと思う。

ただ生きているという事実を無条件に受け入れ、そしてその生を営ませている日々の一瞬一瞬を大切に生きる。これが永平寺の、洗面し、食べ、排泄し、眠る単調な日々の繰り返しの中で、体で感じた僕なりの一つの答えだった。

何のために坐るのか

われわれ俗人でも知っている「只管打坐」。これは一体何なのか。

永平寺の坐禅は、坐ることを目的にも方法にもしていない。ようするに悟りを得るために坐るのではなく、ただ坐るのである。

そうするとどうなるのか。この答えは人によって異なることを著者は認めているようですが、彼のとっての答えは次のようなものでした。

ここに自由があった。禅における自由とは、「自分が」「自分の」といった意識から解放されたところに現われる。ようするに自由とは、自分を取り巻く外部の何かから解放されることではなく、自分の内面にある欲望やその他もろもろの精神的なものから解き放たれることである。そこに何ものにもとらわれることのない、真の自由が生まれる。

キリスト者として感じたこと

おそらくこれが修道院との決定的な違いになるのだと思うのですが、「祈り」はどこにあるのだろうか、と。

これは修道院について同じようなスタンスで書かれた本を読んでみないことにはわからないのでしょうけれど、なかなか適切な本を見つからず、困っているところです。

この記事を書いた人

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元永 徹司

ファミリービジネスの経営を専門とするコンサルタント。ボストン・コンサルティング・グループに在籍していたころから強い関心を抱いていた「事業承継」をライフワークと定め、株式会社イクティスを開業して17周年を迎えました。一般社団法人ファミリービジネス研究所の代表理事でもあります。

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