どんな関係でもそうであるように指揮者とオーケストラの間にも相性があります。理想的には常任指揮者(あるいは音楽監督)との相性が良いことが望ましいのでしょうけれど、世の中そうはうまく行かないこともあり… アラン=タケシ・ギルバートと都響の相性は抜群。俗に言う「相思相愛」と言えるかと思います。彼が都響との関係をとても大切にしていることの大きな要因は、ソロ・コンサートマスターの矢部達也さんの存在。その矢部さんがソリストをつとめるということで、日曜日午後の芸劇は開演前から期待感に満ちておりました。
アラン=タケシ・ギルバートが用意したプログラムはかなり凝ったもの。前半はリスト(アダムズ編曲)による「悲しみのゴンドラ」、そしてバルトークのヴァイオリン協奏曲第1番。後半に入って、アデスの「クープランからの3つの習作」(日本初演)、締めくくりはハイドンの交響曲第90番。
リスト(アダムズ編曲):「悲しみのゴンドラ」
リストが71歳の時につくったピアノ曲が原曲とのこと。もちろん初めて聴きました。プログラムの解説には現代音楽的な響きを予感させるものがありましたが、いざ聴いてみると素直に楽しむことができました。何がゴンドラなのかはわかりませんでしたが。
実はこの曲の演奏中ずっと補聴器のハウリング音が鳴っていて、非常に不愉快でした。曲が終わってからもハウリング音は続き、ついに場内アナウンスが行われる事態に。去年もサントリーホールで補聴器事件があったのですが、あのときも都響でした。同一人物であるとしたら、許し難いことです。
バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第1番
私を含む多くの聴衆にとって、この演奏会のメイン。ようやくハウリング音が止んだホールに粛々と矢部さんが登場。予期せぬハプニングに集中力が乱されてしまったのではという危惧を吹き飛ばし、なんともいえない美音で開始。我々は一瞬にして引き込まれました。
実は10月2日にこの曲を新進気鋭の郷古廉さんが弾いていて、私は予習を兼ねて聴きに行きました。このときの指揮者はハインツ・ホリガー、オケは東京シティフィル。いかにもバルトークという、鋭角的な演奏でした。それはそれで素晴らしかったのですが…
矢部さんの演奏は実に優美なものでした。郷古さんの演奏と比べると、まるで別の曲の様相。しかし、よく考えてみれば、この曲はバルトークが当時愛していた女流ヴァイオリニストのために書いたもの。とすれば、矢部さんの解釈の方がむしろ自然なのかもしれません。もちろん、この曲を優美に響かせるというのは、並大抵の技量ではできないことであるわけですが。
そして感動的であったのが、アランとオケの献身的なサポート。矢部さんご自身も twitter で、「ロールスロイスの後部座席に座っているような」と表現されておられましたが、阿吽の呼吸というか、打てば響くというか、矢部さんへの尊敬の念が溢れるサポートでした。
これで思い出したのが、カール・ズスケがソリストで、ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と録音したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。大コンマスであったズスケを、仲間が全力でサポートする演奏。
この日のアラン/都響のサポートは、勝るとも劣らないものでした。
アデス:「クープランからの3つの習作」
作曲者のアデスは1971年生まれ。この曲は日本初演。もちろん私は聴いたことがありません。そんなに奇をてらった曲ではなく、素直に楽しむことができました。
ハイドン:交響曲第90番
実演では初めて。この曲はハイドンのユーモリストとしての面目躍如たるものがある曲で、一見終わったと思わせた後に四小節の全休符があり、何事もなかったようにオケが演奏を再開するという仕立てになっています。
この日、アランは振り終わったとの演技。四方コンミスが「いえいえ、終わってませんよ」とのジェスチャーの後、Oh, my God! の身振りで受けをとって、アランが再開。9日の文化会館ではもう少し踏み込んだ演出になったようですね。(都響と矢部コンマスが twitter に動画をアップしています!)
大受けで終わったのはもちろんですけれど、演奏もとても良かった。ハイドン好きとしては、「もっとハイドンを!」と言いたいですね。
素晴らしい演奏会でした。16日のマーラー6番が楽しみです。