海の武人のリーダーシップ〜東郷平八郎について考えてみた

今年は明治150周年。 45年続いた明治時代の中で、日本海海戦は日本の命運を決する出来事の一つであったと言えるでしょう。世界海戦史上、他に類を見ないパーフェクトゲームといわれるこの海戦は、白人優越史観をひっくり返した点で世界史的な意義を持っていました。

 

インド独立を達成したネルーは、のちに日本の西山勉大使に、「自分はあのとき牢に入っていた。そのときに日本海海戦の話を聞いて、インドの独立もできると確信した」と語ったということです。

今日はこの勝利の立役者であった東郷平八郎大将(のちに元帥)のリーダーシップについて考えてみたいと思います。

題材としての9冊

 

* 「坂の上の雲」 司馬遼太郎著 文芸春秋社
* 「山本五十六」、「米内光政」、「井上成美」 阿川弘之著 新潮社
* 「歴史と名将」 山梨勝之進著 毎日新聞社
* 「ロシヤ戦争前夜の秋山真之」 島田謹二著 毎日新聞社
* 「東郷平八郎」 下村寅太郎著 講談社学術文庫
* 「東郷平八郎」 田中宏己著 ちくま新書
* 「日本海海戦から100年 -アルゼンチン海軍観戦武官の証言」 マヌエル・ドメック・ガルシア著 鷹書房弓プレス社

それぞれについて御説明しましょう。

「坂の上の雲」については、説明の必要はないでしょう。 NHKのドラマをご覧になった方も多いかと思います。 司馬さんの代表作。

阿川弘之さんの3冊は、「海軍三部作」と呼ばれることが多いのですが、第二次大戦において対米開戦を阻止しようとした海軍の3人の首脳の人物像を、愛情と敬意をこめた文章で活写した名著です。

ここまでは有名な本ですが、このあとの5冊については、ちょっと詳しくお話しする必要があるかもしれません。

「歴史と名将」の著者である山梨勝之進さんは、山本五十六から非常に尊敬されていた海軍大将です。 ロンドン軍縮条約を批准した際の海軍省次官であり、そのために国粋化を強める首脳部から忌避されて海軍を追われました。

一時隠棲して清貧に甘んじ、薔薇を作っておられたのですが、七年後に請われて学習院の院長に迎えられました。 この方の高潔な人格と、高い識見をあらわすエピソードを、 平川祐之著「平和の海と戦いの海」からご紹介しましょう。

 

それにしても思い出されるのはイギリス海軍が山梨大将に対して、その死去に至るまで払い続けた敬意のほどである。 日本海軍はイギリス東洋艦隊を撃滅した憎むべき敵のはずであった。 イギリスはまた連合国の一員として勝者として日本に臨んだ。 それにもかかわらずイギリス海軍は昭和四十二年に至るまで毎年七月二十六日、山梨大将の誕生日に海軍軍令部長の名で祝電を打って寄越した。 人間の価値は国籍や勝敗を超越するものである。

 

 

山梨勝之進をいちばん重んじた人はほかにもいた。「我が心の遍歴」を後に書く長与善郎は、武者小路実篤、安部能成、和辻哲郎、小宮豊隆、志賀直哉ら「心」の同人とともに昭和二十年代の半ば宮中に召され、昭和天皇を囲み、親しく座談の席に列したことが幾度かあった。

和辻博士が日本倫理思想史を御進講した日も、後は座談に寛いだ。 長与はその時ざっくばらんに天皇に向かい、

「陛下はずい分いろんな重臣や軍人の思い出をたくさん持っていらっしゃるでしょうが、その中で一番篤く御信任なさったのは誰ですか」とお訊ねした。

陛下は言下に答えられた。「山梨勝之進」。

 

「歴史と名将」は山梨さんが最晩年の情熱を傾けて海上自衛隊幹部学校で講義をされた講話集です。 この内容の広さ、深さは素晴らしいものです。 ちょっと入手しにくいかもしれませんが、お読みになられることをお薦めします。

島田謹二先生は東大教養学部の比較文学講座の創始者であり、名著「アメリカにおける秋山真之」の著者です。 この「ロシヤ戦争前夜の秋山真之」はその続編。 島田先生は旧制台北高等学校での、李登輝さんの英語の先生でもありました。

東郷平八郎の評伝を2つあげましたが、下村寅太郎先生は東京教育大学で教えておられた哲学者です。 この本が講談社学術文庫に収載されるに至ったのは、島田先生の推薦によるものです。 島田先生の序文によれば:

 

日本海軍がロシア海軍を相手どって、見事に勝ち名乗りをあげ、全世界にその存在を知らせたのは、1904-1905年の日露戦争の結果である。 そのときわが海上武力を終始指揮した人は、海軍大将 東郷平八郎であった。
その東郷大将とは、どんな人であったか。 この問いに答えて、いままでに出たいちばん立派な答案のひとつが、この書である。

 

たしかに、非常にバランスのとれた、よい本であると思います。 もう一冊の評伝の著者である田中宏己さんは、防衛大学校の教授です。 職業柄、旧海軍のオリジナル資料を参照することが容易であることに助けられ、新しい発見の多い好著となっています。

最後の一冊の著者は、この日本海海戦に観戦武官として従軍した、アルゼンチン海軍の大佐(当時)です。 彼は帰国後にアルゼンチン海軍司令長官、海軍大臣を歴任した、とても優秀な軍人でした。 その彼の目から見た日本海軍像には、興味深いものがあります。

さて、前置きが長くなったので、そろそろ本題に入りましょう。 今回考えてみたいのは、ひとことで言えば、「東郷平八郎大将は、リーダーとして、どこが優れていたのか」ということです。

(Ⅰ) 戦後、激変した評価

 

原宿の竹下通りをまっすぐに進むと、左側に東郷神社があります。 この神社はもちろん東郷平八郎を祀ったものです。

生前の東郷は、死後に自分のための神社を作ろうという話を聞いたとき、たいへんな剣幕で激怒したといわれています。しかし軍国主義が強まるなか、彼の遺志に反して昭和15年に神社が建立されることになりました。 東郷の死後6年が経過していました。

戦前の東郷は、まさに「神」になったわけですが、戦後になってその評価は激変します。 教科書から消えたのはもちろんですが、戦後に評価が低落した理由のひとつは阿川弘之の「海軍三部作」であると思われます。 例えば、「米内光政」では:

 

東郷平八郎は、晩年部内で神様扱いをされるようになった。 重大案件は何事も、八十を過ぎた老元帥の意向を聞いてからという奇妙な風潮が出来上がり、ロンドン軍縮条約の批准にあたって、加藤寛治や末次信正、小笠原長生らの取り巻きにかつがれた東郷は、少壮強硬派の勇ましい連中と同じことしか言わなくなり、最高人事に口を出して海軍の進路を誤らせるもとを作った。

 

大体、広瀬武夫を軍神に仕立て、東郷を聖将にして神社を建てたりしたのは、陸軍の肉弾三勇士などと同じく、軍の宣伝目的からであって、横須賀の古い海軍料亭「小松」の先代女将は、「あんたたち、東郷さんとか広瀬さんとか、特別の人のようにむやみと奉り上げるけど、うちへ来て芸者あげてお酒を召し上がる時は、みんな同じだったよ」と、よく言っていた。井上にしてみれば、「小松」のおかみの言うことのほうが、部内の東郷崇拝よりずっと胸におさまりやすかったであろう。 私は、井上成美提督について、この種の話をこれまで度々書いている。 東郷平八郎と名指しではなかったが、「如何に偉功を樹てた軍人といえども、これを神格化するなどは、以ての外のことです」という言葉は井上の口からじかに耳にした。

 

また、海軍三部作の中で一番最初に公刊され、おそらくは、いちばんの名著である「山本五十六」の中にも、このような部分があります。

 

山本自身は、東郷にある種の反発を感じていたらしい。 東郷という人は、長年の間に、日本海軍にとって、何となく天日の如き存在となってしまい、日本海海戦でのその武勲は高く評価されねばならぬとしても、実際には困る面が多々あったようである。 井上成美の一等大将と二等大将の区分では、東郷平八郎は一等大将に入っていない。

 

山本が次官時代の話であるが、女たちと徹夜麻雀のあと朝早く、中村屋の古川敏子が、「今日はわたし、これから成田さんにお詣りに行って来なくちゃ」と言い出すと、何しに成田さんに行くんだと山本が聞いた。敏子は開運の願い事か何かあって、それを話すと、山本は、「なんだ。 それなら手近に東郷神社があるじゃないか。 まわりの人にみんなやってもらって運がよくなりたいんなら東郷神社へ行けよ。 東郷さんくらい運のいい人はいやしない」と言った。
「まわりの人」というのは、多分日本海海戦の時の東郷の幕僚、加藤友三郎や秋山真之のことであろう。

 

要するに晩節を汚したということなのでしょうね。 阿川弘之の「海軍三部作」はよく読まれているので、ここでの評価の低さはかなり影響したと思われます。

もう一つ、評価の低落に力があったのは「坂の上の雲」でしょう。 司馬遼太郎は乃木大将の能力については痛烈な批判を展開していますが、東郷のことをけなして書いているわけではありません。

ただ、秋山真之にスポットライトが当たれば当たるだけ、東郷の存在が霞んだということは、あるのではないでしょうか。「坂の上の雲」は、戦後最もビジネスリーダーに読まれた小説のひとつでしょうから、やはり東郷に対する評価の低落に、あずかって力あったと言うべきだと思います。

 

(Ⅱ) 一般に語られる東郷の「偉さ」

 

東郷平八郎の「偉さ」が論じられる際に論拠として引かれることが多いのは、次の3点です。

1) バルチック艦隊が対馬沖を通過すると確信して動揺しなかった。

2) 海戦が始まるやいなや、敵前で大胆に回頭し、勝利を決定的なものにした。(この敵前での大回頭は、戦史上、 the Togo turn と呼ばれるくらいに有名になりました。)

3) 凱旋帰国した後、連合艦隊を解散するときのスピーチが、英国王やルーズベルト大統領を感動させ、ルーズベルト大統領に至っては、そのコピーを合衆国海軍の士官全員に配布し、必読のものとした。

 

東郷、動揺せず。

 

バルチック艦隊がロシアを出発して以来、津軽海峡と対馬海峡のどちらを通るのかが大問題となっていました。

当時の軍艦の速力では、裏をかかれた場合に取り逃がしてしまう公算が大きかったので、守る日本海軍にとっては、これは国の死活を賭けた問題でした。

とくに、バルチック艦隊のスピードが予想していたよりも遅かったため、なかなか情報網にひっかかってこず、 一時は対馬ではなく津軽海峡を通るという観測が有力になりました。

その昔、三船敏郎が東郷を演じた映画「日本海海戦」では、動揺する部下に対して微笑を浮かべた東郷が、対馬沖通過を確信して微動だにしない場面が印象的でした。 「坂の上の雲」ではこのように描かれています。

 

東郷は長官室にいた。 島村と藤井が入った。 席が与えられたため藤井はすわろうとしたが、島村は起立したまま、口をひらいた。 彼はあらゆるいきさつよりもかんじんの結論だけをきこうとした。
「長官は、バルチック艦隊がどの海峡を通って来ると思いですか」
ということであった。
小柄な東郷はすわったまま島村の顔をふしぎそうにみている。 質問の背景を考えていたのかもしれず、それともこのとびきり寡黙な軍人は、打てばひびくような応答というものを個人的習慣としてもっていなかったせいであるかもしれない。 やがて口をひらき、
「それは対馬海峡よ」
と言いきった。 東郷が、世界の戦史に不動の地位を占めるにいたるのはこの一言によってであるかもしれない。

 

島村というのは、第二艦隊第二戦隊司令官の島村速雄少将(のちに元帥)、藤井は彼の参謀長であった藤井較一大佐(のちに大将)です。 東郷の司令部が動揺していると聞いて心配した島村が、直接意見具申のためにやってきたけれど、東郷が微動だにしていないのを見て安心したという場面です。

しかし、現実はこうではなかったらしいのです。 田中宏己さんの「東郷平八郎」は最新の研究成果を反映した本なのですが、このように書かれています。

 

バルチック艦隊が太平洋に出て津軽海峡に迂回するつもりではないかと危惧した連合艦隊司令部では、5月25日午前、各艦隊の司令長官と参謀を旗艦「三笠」に召集して作戦会議を開いた。 会議は堂々めぐりを繰り返し、午後三時ごろになって津軽海峡に向け移動することに決まりかけた。 そこへ所用で遅れた第二艦隊参謀長藤井較一がやってきて猛然とこれに反対し、第二戦隊司令官島村速雄も同調したため、同日の移動はとりやめになった。

 

秋山真之の回想によれば、東郷は5月18日頃から日に日に痩せていったという。 部下の議論百出にも悩まされたが、バルチック艦隊の動向がつかめない中で艦隊を動かすべきか、取り逃した場合にはどうすべきか、考え出したら夜も寝られず、食事も喉を通らなくなったのであろう。

 

このように決着をつけることができずにいたところ、5月27日午前4時45分、哨戒任務についていた仮装巡洋艦「信濃丸」から、「敵航路東北東、対馬東水道に向かうもののごとし」という電報が入り、連合艦隊が出撃することになったわけです。

もう一日バルチック艦隊の出現が遅れていたら、連合艦隊は津軽海峡に向けて移動していた公算が高く、その意味で非常にきわどいタイミングであったといわれています。

 

東郷ターンの決断

 

「東郷ターン」は、後世、あまりにも有名になりました。 やはり、「坂の上の雲」から、その情景を見てみましょう。 文中の「加藤」は東郷の参謀長である加藤友三郎大佐(のちに元帥)のことです。

 

安保砲術長の記憶では、かれの眼前で背を見せている東郷の右手が高くあがり、左に向かって半円をえがくようにして一転したのである。 瞬間、加藤は東郷に問うた。 東郷が点頭した。 このとき、世界の海軍戦術の常識をうちやぶったところの異様な陣形が指示された。
「艦長。 取り舵一杯」
と、加藤は、一度きけばたれでも忘れられないほどに甲高い声で叫んだ。

艦長伊地知大佐は、一段下の艦橋にいた。 かれの常識にとってもこの号令は信じられないことであった。伊地知がおどろいたのは、すでに敵の射程内に入っているのに、敵に大きな横腹をみせてゆうゆう左展する法があるだろうかということであった。 伊地知はおもわず反問し、

「えっ、取り舵になるのですか」
と、頭上の艦橋にどなりあげると、加藤は、左様取り舵だ、と繰り返した。
たちまち三笠は大きく揺れ、艦体がきしむほどの勢いをもって艦首を左へ急転しはじめた。 艦首左舷に白波が騰り、風がしぶきを艦橋まで吹きあげた。 有名な敵前回頭がはじまったのである。

 

非常に緊迫した情景が目に浮かぶようです。 ただ、このときも実際は少し異なるものであったらしいのです。 田中宏己の「東郷平八郎」は、当時「三笠」の副長であった松村龍雄中佐(のち中将)の回想録をもとに、つぎのように描写しています。

 

ついで連合艦隊は南西に向きを変え、両者の間隔は見る間に接近した。 このままでは、反対方向に航行する両艦隊がすれちがいざまに打ち合う反航戦になってしまう。 反航戦は、攻撃時間が少ないため相手に致命傷を与えにくく、相手を取り逃がす可能性が高い。 「三笠」艦橋ではどうすべきか激論が展開し、混乱の極みにあった。

松村の回想録は続く。「反航か同航か定まらぬ内は射撃の号令を下すわけにいかないので、砲術長安保少佐は大いに焦燥し、各砲台でもどうしたらよいか当たりがつかない状況であった。 その内にとにかく同航戦と定まって三笠が取り舵に大角度の転針を行ったときには、もう八千メートルの近距離になっていた。」

文中の「三笠が取り舵に大角度の転針を行った」のが、のちに有名になった「敵前大回頭」である。 沈黙を守る東郷が突然下した大英断のように描かれてきたが、実際は艦橋の司令部が迷いに迷い、大騒ぎの末に決まったと言うのが真相のようだ。

 

大回頭の決断は東郷の責任で行ったものであったので、それが英断であったことは間違いないのですが、それは後世称賛されるようになったような熟慮に基づいたものではなく、少年兵として従軍した薩英戦争以来の豊かな実戦歴を持つ東郷の、瞬時のカンによるものであったようです。

そのカンの背景には東郷の英知があったという説もあります。 司馬遼太郎が「坂の上の雲」の中で紹介していますが、海軍砲術の権威であった黛治夫大佐の見解はつぎのようなものでした。

 

三笠が取り舵をとってから三分間は全く射撃されていない。 そして初めて15センチ砲の小さな弾丸が三笠に命中したのは回頭開始から実に八分後の午後二時十三分。 30センチ弾が命中したのはそれよりさらに一分後である。 目標が回頭中、一点に集弾させることはジャイロコンパスのなかった昔の軍艦ではできない芸当なのである」とし、黛氏は東郷のえらさは大冒険をやったことではなく、それを知りきって「不安なく回頭を命じた大英知」にあるとしている。

 

連合艦隊解散の辞

 

「連合艦隊解散の辞」は、のちのちまで日本海軍の思想に大きな影響を与えたと言われる文章です。 長文ですが、この文末に付録で付けるので御参照ください。 その中でもとくに有名なのは:

 

百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。

 

惟ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして時の平戦に依り其責務に軽重あるの理無し。事有らば武力を発揮し、事無かれば之を修養し、終始一貫其本分を尽さんのみ。

 

神明は唯平素の鍛練に力め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を奪ふ。 古人曰く勝て兜の緒を締めよと。

 

といったあたりでしょうか。 セオドア・ルーズベルト大統領はこの英訳を読んで感動し、合衆国海軍の全士官にコピーを配布して熟読するように求めたことは有名です。 ただし、その内容については戦前にもいろいろ議論があったようで、阿川弘之の「米内光政」にはつぎのように書かれています。

 

「解散の辞」の中に、「百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば」という言葉が見える。 これが後年、日本海軍の精神主義、「月月火水木金金」の猛訓練一途につながっていくわけで、井上は昭和5年大佐で海軍大学校の教官当時、学生に「百発百中の砲一門は能く百発一中の砲百門に対抗しうるか」という命題について是非を論じさせたことがあった。 自分では内心、「あんな馬鹿なことはあるものか。 あのときから、海軍の堅持すべき合理主義がゆがめられ始めたのだ」と思っていた。

 

ただ、この文章は東郷平八郎の直筆によるものではありません。 これを書いたのは、彼の参謀で「坂の上の雲」の主人公である、秋山真之中佐でした。 もちろん幕僚として、東郷の意図は汲んだのでしょうが、これが名文であるのは秋山の筆力によるところが大きいと言うべきであろうと思います。

このように見てくると、本当に「東郷平八郎は偉いのか」という疑問が湧いて来るかと思います。 戦後、評価が急落したのも頷けないわけではないと思っても、不思議ではないですよね。 しかし、それでも、私は彼が優れたリーダーであったと思っているのです。

 

Ⅲ)東郷がリーダーとして優れたいた点(私見)

 

元帥となってからの晩年はともかく、私は日露戦争時の日本海軍は、東郷平八郎大将が司令長官であったからこそ、あのような大勝利をおさめることができたのだと考えています。 その理由は3つあります。

 

1) ファイターであったこと

 

すぐれたリーダーにとって、ファイターであることは絶対的に必要な条件であると思います。 ただし、ここで私が言うファイターとは、闘志満々の喧嘩っ早いタイプではなく、不屈の闘志を内に秘めた、静かな人物のことを言います。

実際に東郷大将と面識があり、部下として仕えたことのある山梨大将の意見を見てみることにしましょう。

 

谷口尚真大将が、中佐のとき副官としてイギリスについていかれ、帰ってきてからの話ですが、「東郷さんという人はいったいどういう人だろうか」と私に聞かれた。 それで私は、「結局は東郷さんはファイターであると思う」と答えたのであります。

 

大地震があったのは大正十二年ですから、たしか東郷さんが七十七歳か、七十八歳でしょう。 麹町一口坂の自宅がまさに類焼しかけたときに、東郷さんは海軍大将の軍服を着て脚半を着け、二階に上がってバケツで瓦に水をまいて奮闘し、とうとう消し止めた。 息子さんは若いのにへたばったが、東郷さんは参らなかった。 ああいうところを闘志というのでしょうか。 昔の水交社は今の築地の魚河岸の近くにあり、海軍経理学校も付近にあった。 しかも大きな池もあるのに、類焼してしまった。 東郷さんは大変機嫌が悪く、若い者が大勢いるのにあれを焼かすようなやつは不届き千万である、ふがいないやつだと言われた。

 

「坂の上の雲」でも、象徴的なエピソードが紹介されています。 文中で権兵衛とあるのは、日露戦争時の海軍大臣であった、山本権兵衛大将のことです。

 

権兵衛と東郷平八郎とは、同じく戊辰戦争に参加した薩摩の復員兵仲間だが、東郷のほうが五つ年上で、かれがイギリスの商船学校を卒業して帰国したとき、権兵衛と一時おなじ軍艦に乗った。 権兵衛は既に海軍兵学寮は出ていたが、階級は東郷より下だった。 「そんな馬鹿なことはない。 東郷がおれより海軍の学問技術が達者だというのか」というのが権兵衛の日ごろの鬱憤だったらしい。 あるとき甲板で議論になった。
「そんな馬鹿なことがあるか」と、権兵衛は、かれの日本人ばなれした論理的才能を駆使して上官の東郷をおさえつけようとしたが、東郷も負けずに主張し、ついに決着がつかなくなった。 あとは、喧嘩である、ということに薩摩ではなるのだが、もはや両人とも海軍士官になっている以上、そういう若者のころの真似はできない。
「よし、マスト登りで勝負とつけよう」と、権兵衛は叫んだ。 東郷も、応じた。
権兵衛は、顔つきも気性も豹のような男だが、マスト登りにかけてもこのネコ科の猛獣に似て、だれにも負けなかった。 たちまちトップにのぼってしまった。
が、東郷はなかほどにも達しない。 イギリスの本場仕込みとはおもえぬほどにじつにへたで不器用で、しかもどこかでズボンをひっかけたのか、すそまで裂いてしまっている。勝負がついたから、東郷はもう途中からおりてもいいのだが、しかしヨチヨチと登っている。ついにトップに達してから、「俺のまけじゃ」といっておりはじめた。 トップにいた権兵衛はさらさらと降りて、降りるほうでも東郷を負かした。

おわってから権兵衛は士官次室で、「東郷はちょっとみこみのある男だ」とまるで自分のほうが上級者であるように東郷をほめた。 ほめた理由は、「あいつは最後まで勝負を捨てなんだ。 敵のおれがたとえトップまで行っていても、ひょっとして急性盲腸炎にでもなってマストから転げ落ちるかもしれない。 東郷はそれを期待していたわではなかろうが、一軍の大将というのは、ああいうしぶとさが必要だ」ということであった。

 

2) 器が大きかったこと

 

部下を統御する器の大きさというのは、リーダーにとって非常に重要な条件であることは言うまでもありません。 才能のある部下を抜擢して、その力を縦横に発揮させる器の大きさがあることが、求められるわけです。

その際の方法として、「薩摩式将帥法」とも言うべきものがあります。 同じ日露戦争の際の、陸軍の現地軍総司令官であった大山巌大将(のち元帥)がその代表例とされることが多いのですが、どんなものであるのかを「坂の上の雲」で見てみましょう。

 

大山巌は、幕末から維新後十年ぐらいにかけて非常な知恵者で通った人物であったが、人の頭に立つにつれ、自分を空しくする訓練を身に付けはじめ、頭の先から足の先まで、茫洋たる風格をつくりあげてしまった人物である。 海軍の東郷平八郎にもそれが共通しているところから見ると、薩摩人には総大将とはどうあるべきかという在り方が、伝統的に型としてむかしからあったのであろう。

 

沙河会戦で、激戦が続いていて容易に勝敗のめどがつかず、総司令部の参謀たちが騒然としているとき、大山が昼寝から起きてきて部屋をのぞき、
「児玉さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」
と言って、一同を唖然とさせた人物である。 大山のこの一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、ヒステリックな状態がしずまったという。

 

司馬遼太郎は、秋山真之と東郷平八郎の出会いについても、以下のように描写しています。

 

真之はこの人物をひと目みて、これは徳のある人物だ、とおもった。 いざ連合艦隊という大軍が組織される場合、これを統御する人物はよほど徳望のある人物でなければならない。
真之は椅子をもらい、長テーブルをはさんで対座したが、東郷は、
「このたびのこと、あなたの力にまつこと大である」
といっただけで、だまってしまった。 だまりながら、薩摩人が客に対してみせる特有の表情で真之を見ていた。 唇を閉じ、両はしにしずかな微笑を溜めている。

対面はそれだけでおわった。 あとで人事局の千秋恭二郎が感想をきくと、真之はしばらく考えてから、
「あれは大将になるためにうまれてきたような人だ」
といった。
「あの人の下なら、よほど大きな絵がかけそうだ」
ともいった。

 

実際、東郷は島村速雄、加藤友三郎、秋山真之といった当時の海軍を代表する逸材を使いきり、存分に力を発揮させたといえるでしょう。 この点は、東郷のリーダーシップが存分に発揮されたところであると言えます。

ところで、この「薩摩式将帥法」は、本来は非常に聡明な人物が、敢えて実施するところにポイントがあります。

大山巌は、非常にシャープな人物でした。凡庸な人物がこれを行えば、単なる大物気取りの、放任マネジメントになってしまうのです。 第二次大戦中の日本陸軍には、この悪い方の事例がたくさんあります。

東郷も決して放任ではありませんでした。 当時の海軍のエースの一人であった村上格一大佐(のち大将)は、山梨さんの質問に、以下のように答えているのです。

 

私が村上格一大佐に、「あなたは東郷さんのどこが偉いと思いますか」とたずねたところ、「それは山梨君、他の長官は案をもっていくと、これはいけない、これはだめだというが、東郷さんは決してそうやらない。 こいつはどうか、あの点はどうなっているかと言い、また自分の考えておられることも言われる。 気がつかないこともわかってくるので、東郷さんが頭を振ったところを研究し、また直して持っていくという具合で、決して参謀まかせではない。 それが偉いところだ」と言われた。

 

山本五十六は、大きな誤解をしていたわけですね。(山本は日本海海戦に従軍していますが、少尉候補生にすぎませんでした。実際に東郷に接していたわけではなかったのです。)

 

3) 逆境を受け止める剄さがあったこと

 

実は私が、東郷大将がもっとも偉かったと思う点はここにあります。 日露戦争での日本海軍の大勝利のポイントは、日本海海戦に勝利した1905年5月27日ではなく、1904年5月15日であったと、私は考えているからです。

1904年5月15日は、日本海軍の前途に暗雲が垂れ込めた日でした。 旅順港に立てこもったロシア東洋艦隊を封鎖する任務についていた連合艦隊を、大きな不運が襲いました。

連合艦隊の主力は、当時世界最強レベルにあった「三笠」をはじめとする一等戦艦6隻でした。 いずれも国産することができず、多額の国費を投じてイギリスに発注したもので、本当に宝物のようなものだったのです。

この6隻のうちの2隻、「初瀬」と「八島」が旅順港沖で機雷に触れて大爆発を起こし、沈没してしまったのでした。 日本海軍は、ロシア東洋艦隊、そしてヨーロッパから回航してくるバルチック艦隊との決戦を前に、決戦戦力の33%を一日で喪失したわけです。 このショックは激甚なものでした。

連合艦隊旗艦、「三笠」の司令部の情景を、前「三笠」砲術長であった加藤寛治大佐(のちに大将)はこのように述べています。

 

何しろ、わが海軍に六隻しかなかった戦艦の三分の一を一日の内に失くしてしまったのでありますから、憂色全軍を蔽い、三笠艦内は寂として物言う者もなく、さすがの名参謀秋山中佐さえ、頭を垂れて考えに沈むという様な状況でありました。

 

 

では、東郷平八郎は、このショックをどう受けとめていたのでしょうか。 再び加藤大佐の回想を引用します。

 

 

あの豊かな童顔をにこにこさせて、平日の如く甲板を、こつこつと散歩しておられた泰然たる態度は、今もありありと私の眼に残っております。

 

東郷司令長官であったればこそ、この危機がすくわれたので、三笠の司令部の諸員も実に、あのにこやかな長官の顔を見て、元気を取り返し自信力を回復して、当面の画策に任ずることができたのであります。

 

 

「三笠」砲術長、安保清種少佐は、同じく、次のように戦後回想しています。

 

独り東郷司令長官のみは、何処に何があったかというような風貌で、余暇さえあれば旗艦三笠の後甲板を往きつ戻りつ泰然として運動しておられたのである。 その冷静沈着の容姿、悠然不屈の態度は不言のうちに艦内の将兵を激励奮起せしめたのであって、伝えて艦隊の士気はおのずから振い、幾日の後には全く面目を一新するに至った。

 

当時英国大使館付き武官であり、一等戦艦「朝日」に観戦武官として便乗していたイギリス海軍のペケナン大佐(のちに大将)も、つぎのように述べています。

 

東郷長官が「朝日」にみえるというので、私は絶大の興味をもって、いったいこの場合どんな顔をしてくるか、それが見たいものだと思っていたが、静かに舷梯を微笑をたたえてのぼってきて、上甲板から中甲板と皆に迎えられて、皆の顔を見ながら、にこにこと話をして物静かであった。 この姿で、私も、また一艦の士気も、一瞬にして憂鬱さと落胆が地を払ってなくなった。 長官がああいう気持ちなら、大丈夫だと思った。 なんともいわれない感激の場面であった。

 

私は、このときの東郷のリーダーシップ、つまり逆境を受けとめる剄さを身を以って示したことが、日露戦争における日本海軍の勝利の原点であると考えています。 おそらく、ここでの士気の回復がなければ、黄海海戦、日本海海戦の勝利はなかったのではないでしょうか。

このことは、あまり世間では強調されることがないのですが、当時大尉として水雷艇長であった水野広徳(のちに、言論人として有名になりました)は以下のように述べています。私もまったく同意します。

 

敵の大艦隊を日本海に殲滅したる東郷大将の知勇は素より偉大である。 勇壮である。 しかし、斯くのごときは我が海軍中、他にその人なしと云うことを得ないが、1904年5月14日、15日に起こりたる我が海軍大厄難に対して、能く之を狂乱の既倒に支え得たるものは東郷大将唯ひとりであると思う。

 

このように考えてみると、やはり日露戦争に於ける東郷平八郎大将のリーダーシップは、素晴らしいものであったと言うべきでしょう。

最後に、大使館付武官として開戦前から日本海軍首脳部との親交を深め、開戦後は観戦武官として、装甲巡洋艦「日進」に便乗して日本海海戦を体験したガルシア大佐の目からはどのように見えていたのかをご紹介して、この文章を終えることにしたいと思います。

 

東郷提督は、直前まで舞鶴鎮守府司令長官という比較的地味な配置についていた。 このような、日本海軍の最高指揮官の職に適した条件を備えていると思われない人物が、連合艦隊司令長官に任命されたため、海軍部内に大きな驚きをもたらした。 彼のように人物的にも極めて地味で飾り気のない人物が、日本艦隊の最高指導者、言うなれば日本の将来の運命が託される要職に指定されたことが、信じられなかったのである。

しかし、日本国天皇に、東郷提督を連合艦隊司令長官に任命することを助言し、推薦した人々は、同提督の高潔な人格に着眼していた。 各人の個人的な先入観のために完全に忘れられていたが、東郷提督の高潔な人格は、同提督の偉大な愛国心と、軍人たちの世界に常に存在する競争意識や、自己愛護の感情を完全に捨て去った、同提督の謙虚な姿に見出すことができた。

彼ら各級指揮官は、この果敢な人物のところに通された最初の瞬間から、その人物が彼らを決して見捨てるようなことのない指揮官であることがわかり、また彼らを適切に導いてくれる資質を有していることが理解できた。 そして、小さな体格の東郷提督が、彼らの誰よりも大きく見えたのである。

 

最後に

 

おまけとして、秋山真之中佐の筆による、「連合艦隊解散の辞」の全文をご紹介します。 中島敦を連想させる、漢文調の格調の高い文章です。 私たちの世代では、もうこのような日本語を書くことができなくなってしまったことを、残念に思います。

 

訓示

「二十閲月の征戦已に往時と過ぎ、連合艦隊は今や其の隊務を結了して茲に解散する事となれり。然れども我等海軍軍人に責務は決して之が為に軽減せるものにあらず、此戦役の収果を永遠に全くし、尚ほ益々国運の隆昌を扶持せんには時の平戦を問はず、先づ外衝に立つべき海軍が常に其武力を海洋に保全し、一朝緩急に応ずるの覚悟あるを要す。而して、武力なるものは艦船兵器のみにあらずして、之を活用する無形の実力にあり。百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。近く我海軍の勝利を得たる所以も至尊霊徳に由る処多しと雖も抑亦(そもそもまた)平素の練磨其因を成し、果を戦役に結びたるものして若し既往を以って将来を推すときは征戦息むと雖も安んじて休憩す可らざきものあるを覚ゆ。惟ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして時の平戦に依り其責務に軽重あるの理無し。事有らば武力を発揮し、事無かれば之を修養し、終始一貫其本分を尽さんのみ。過去一年有余半彼の波濤と戦い、寒暑に抗し、屡(しばしば)頑敵と対して生死の間に出入せし事、固より容易の業ならざりし、観ずれば是亦長期の一大演習にして之に参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福比するに物無く豈之を征戦の労苦とするに足らんや。

 苟しくも武人にして治平に偸安(ゆうあん)せんか兵備の外観巍然たるも宛も沙上の楼閣の如く暴風一過忽ち崩倒するに至らん。洵(まこと)に戒むべきなり。

 昔者(むかし)神功皇后三韓を征服し給ひし以来、韓国は四百余年間我統理の下にありしも一度海軍の廃頽するや忽ち之を失ひ又近世に入り徳川幕府治平に狃(な)れて兵備を懈れば挙国米船数隻の応対に苦しみ露艦亦千島樺太を覬するも之に抗争する能はざるに至れり。翻って之を西史に見るに十九世紀の初めに当たり、ナイル及びトラファルガー等に勝ちたる英国海軍は祖国を泰山の安きに置きたるのみならず爾来後進相襲で能く其武力を保有し世運の進歩に後れざりしかば今に至る迄永く其国利を擁護し、国権を伸張するを得たり。蓋し此の如き古今東西の殷鑑は為政の然らしむるものありしと雖も主として武人が治に居いて乱を忘れざると否とに基づける自然の結果たらざるは無し。我等戦後の軍人は深く此等の事例に鑑み既有の練磨に加ふるに戦役の実験を以ってし、更に将来の進歩を図りて時勢の発展に遅れざるを期せざるべからず。若し夫れ常に聖諭を奉戴して孜孜奮励し、実力の満を持して放つべき時節を待たば庶幾(こいねがわ)くは以って永遠に護国の大任を全うする事を得ん。神明は唯平素の鍛練に力め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を奪ふ。

 古人曰く勝て兜の緒を締めよと。

明治三十八年十二月二十一日 連合艦隊司令長官 東郷 平八郎」

この記事を書いた人

元永 徹司

元永 徹司

ファミリービジネスの経営を専門とするコンサルタント。ボストン・コンサルティング・グループに在籍していたころから強い関心を抱いていた「事業承継」をライフワークと定め、株式会社イクティスを開業して12周年を迎えました。一般社団法人ファミリービジネス研究所の代表理事でもあります。

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