天才マケラによる凄絶な美:東京都交響楽団第397回プロムナード・コンサート

首都圏の好楽家がこぞって待ち望んでいた今日のコンサート。酷寒の戦いであったレニングラード攻防戦を描いた作品を、超絶酷暑の日に聴くという皮肉(笑)。あまりの暑さにクラクラしながらサントリー・ホールへ。

指揮は、いま世界で一番ひっぱりだこのクラウス・マケラ。(Mäkelä なので、本当は「メケレ」が近いんだけど、まあ、いいか。フィン語学習者しか気にしないし…)

曲目はやはりフィンランド出身のサウリ・ジノヴィエフによる「バッテリア(2016)」、そしてショスタコーヴィッチの交響曲第7番「レニングラード」

サントリーホールは満員札止め。しかしP席にずらりと空席が並んでいたのはどういうことなのか… 行けなくなった人がチケットを放出する仕組みを導入するべきですよね。シカゴ響は30年前の時点で導入していて、金欠の留学生であった私はずいぶんお世話になりました。

サウリ・ジノヴィエフ:「バッテリア(2016)

もちろん日本初演。レニングラードと同じくらいの大編成の、10分ちょっとの曲。かなり凝った作りであるように思いました。

私はとても楽しんで聴きましたが、それはマケラの指揮もさることながら、矢部コンマス率いる都響の献身的な演奏があってのこと。終演後ステージに招き上げられた作曲者が、矢部さんに熱烈に握手を求めていたのは、感謝の表現だったと思います。もしかすると、作曲意図を超える名演だったのではないでしょうか。

ショスタコーヴィッチ:交響曲第7番「レニングラード」

この時期に「レニングラード」を取り上げると、どうしても政治的な色彩を帯びてしまうわけですが、今日の演奏は純粋に音楽的なもので、標題音楽的な解釈からは遠かったように感じました。例を挙げれば、第三楽章冒頭。あのロシア正教の寺院の鐘を連想させる部分を強調する指揮者は多い(ヤルヴィ父とか、インバルとか)のですが、マケラはそこでのデフォルメはせず、案外すらっと通っていました。

日本デビューとなったシベリウスの1番、そしてオスロ・フィルとのシベリウス全集録音で明らかなように、マケラの特色は、伝統とか、ルーティーンに囚われない、非常に深い譜読みにあると私は考えています。私はキャリア50年におよぶシベリウス愛好家(笑)として、既存のほとんどの音源を聴いているのですが、マケラの演奏の新鮮さには驚愕しました。この人は本当にすごい。

今回のレニングラード(というよりも、「交響曲第7番」とニュートラルに呼ぶ方がふさわしい演奏でしたね)は、恐ろしいくらいにフレッシュで、切れば血が出るような趣き。標題性は慎重に避けられていたにもかかわらず、聴き終わって頭に浮かんだのは、「私の交響曲のすべては墓碑である」というショスタコーヴィッチ回想録の言葉でした。(あの本は偽書であると言われていますが、断片的には彼自身の言葉がおさめられていると私は感じています。ムソルグスキーのボリス・ゴドノフについての部分とか、グラズノフについての親愛の情のこもった回想とか。)

サントリー・ホールが「箱鳴り」するのを私は初めて体験しましたが、超絶大音量でも美しさが寸毫も失われないのは、マケラの力量でしょう。

天才によってのみ可能な、凄絶な美。こんな演奏を聴いてしまうと、この後この曲を聴くのはしんどいですね。

オーケストラについて

こういう言葉を使うのは田舎者臭くて恥ずかしいのですが、今日の都響は「世界水準」でした。

そして、優れた指揮者の意図を実現するためには優れたコンマスが必要不可欠であるということを、音響的にも、そして視覚的にも、心の底から納得しました。矢部さん、凄いです。

弦のトップは、あの卓越した晴れオケの方々(プラス伊東さん、店村さん)。管の首席奏者の妙技も素晴らしいの一言。ファゴット吹きの端くれとして、岡本さんのソロには痺れました。完璧。もちろん、鷹栖さん、柳原さん、サトーさんもお見事。

多くの方が、「今年のベスト」に取り上げるであろう、素晴らしい演奏会でした。ありがとうございました。

Paljon kiitos!  Klaus!

注: 写真は都響の Twitter およびマケラさんのwebから拝借したものです。

この記事を書いた人

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元永 徹司

ファミリービジネスの経営を専門とするコンサルタント。ボストン・コンサルティング・グループに在籍していたころから強い関心を抱いていた「事業承継」をライフワークと定め、株式会社イクティスを開業して17周年を迎えました。一般社団法人ファミリービジネス研究所の代表理事でもあります。

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