33年前のカレンダーが描く、日本海運の歴史

シンプルライフを目指して、お正月から「断捨離」を進めています。書庫として使っている物置を整理していたら、1985年の日本郵船のカレンダーが出てきました。日本郵船の100周年を記念して制作された、特別に豪華なカレンダーです。12枚の日本郵船の船の絵なのですが、おそらくは上田毅八郎画伯によるものと思われます。このカレンダーには、日本海運の歴史が描かれています。(日本海運の歴史は、日本郵船の歴史です。)

1985年は私が日本郵船に入社した年です。そう、思い出しました。このカレンダーは入社前に人事部から送っていただいたことを。小学生の頃から無類の船好きであった私はとても感激して神戸の独身寮に持って行き、85年が終わった後も大事に保存していたのでした。今回、日付の部分を切り落として、気に入った絵を額装しようと思ったら、なんと1985年の曜日の配列は今年と同じなのですね。ということで、今年いっぱい部屋にかけて楽しむことにしました。

1月: 廣島丸

日本で初めての遠洋定期航路であるボンベイ航路の一番船。航路開設は1893年、つまり日清戦争の前年のことでした。スクリュー推進ではなく外輪船。せいぜい10ノット(時速18キロ)がやっとであったはずで、こんなに煙がたなびくことはないと思うのですが、上田画伯のサービスでしょうか(笑)。

2月: 信濃丸

イギリスに発注して作られた船。日露戦争の際に海軍に徴用され、仮設巡洋艦となりました。東シナ海で哨戒任務につき、対馬海峡へ進路を向けたバルチック艦隊を発見。「敵艦見ゆ」の信号を発信したことで歴史に名を残すことになりました。信濃丸は強運で、第二次大戦後の引き揚げ船としても活躍しました。(この絵、勇壮でいいですよね。)

3月: 香取丸

戦前の欧州航路に投入されていた客船です。日本はこの頃から国産で大型船を建造できるようになり、香取丸は初めて1万トンを超えた船となりました。ちなみに日本郵船では客船に神社の名前をつけていました。同じクラスの船としては、鹿島丸、筥崎丸、伏見丸など。第二次大戦が迫る中、新造船であった靖国丸、照国丸が就航しましたが、照国丸はドイツが敷設した機雷に触れてイギリスのハーリッジ沖で沈没しています。日本が参戦する前のことでした。香取丸も海軍に徴用され、1941年にボルネオ沖で雷撃を受け、戦没しています。

この頃から、白地に赤い線を二本引いたマークが煙突に描かれるようになりました。「ファンネル・マーク」といいます。日本郵船の船であることを示すためです。

明治以来、「海外の港で日の丸を掲げている商船は全て日本郵船の船であるから、ファンネルマークの必要はない」という理由で、この頃まで煙突は真っ黒に塗られていたのです。

4月: 浅間丸

姉妹船である龍田丸、鎌倉丸とともにサンフランシスコ航路に就航し、「太平洋の女王」と呼ばれていました。

第二次大戦では、ヨーロッパで戦端が開かれた後、日本が真珠湾攻撃で参戦するまでには2年間のギャップがありました。アメリカに居住するドイツ人(この中にはドイツ軍人が含まれいました。)が浅間丸で日本に脱出を図っているという情報を得たイギリス海軍は巡洋艦を派遣し、房総半島沖の公海上で浅間丸を停止させ、ドイツ人乗客を戦時捕虜として逮捕しました。いわゆる「浅間丸事件」です。

これは戦時国際法上は合法な行為で、だからこそ浅間丸は停戦命令に従い、日本海軍も介入しませんでした。ところが、朝日新聞が世論を煽った結果、事態が一変。船長の自宅が暴徒の投石を受ける騒ぎに発展し、ベテラン船長は辞表を出すに至ります。今も昔も朝日新聞は朝日新聞、という感がありますね。

5月: 氷川丸

おそらく日本郵船の船舶の中で、一番有名な船。第二次大戦で唯一生き残った大型船でした。姉妹船の平安丸、比良丸とともにシアトル航路に投入されました。シアトルは明治の初めの頃は小さな漁港でしたが、グレート・ノーザン鉄道に接続するための寄港地として日本郵船がこの港を選んだことにより、現在の繁栄の基礎が築かれました。(大阪商船はタコマを選択。)このため、グレート・ノーザン鉄道は「シアトルの父」、日本郵船は「シアトルの母」と呼ばれていたのですよ。

今の氷川丸は山下公園に係留されていて、横浜を代表する観光名所の一つとなっています。ただ、海底に固定されているわけではなく、船として浮いているので、ちゃんと船長がいるのです。第28代船長は金谷さん。航走することはないので、機関長はいないのですが。

6月: 札幌丸(手前)と、はんぷとん丸

この絵は昭和39年に実施された海運再編を象徴しています。深刻な構造不況に突入していた日本の海運業界は、運輸省の主導で集約化を行いました。日本郵船は三菱海運と合併。まあ、もともと三菱系なので、この合併はうまくいったように思います。

札幌丸は日本郵船が建造したS型貨物船の一つ。S型は「海の零戦」と呼ばれた優秀船でした。

7月: 春日丸 (3世)

私が入社した時点での最大のコンテナ船で、姉妹船の北野丸、鎌倉丸、鞍馬丸とともに欧州航路に投入されました。20フィート・コンテナを2700個積むことができました。全長290メートル。戦艦大和よりも大きな船です。日本郵船の欧州航路のコンテナ船は、戦前の欧州航路を支えていた客船にちなんで命名されています。(唯一の例外が、鎌倉丸)

春日丸1世は、香取丸などと同様に大正から昭和にかけての欧州航路を支えた船のひとつでした。

春日丸2世は悲劇の船。1940年に予定されていた東京オリンピックに備えて欧州航路に就航すべく、姉妹船の新田丸、八幡丸とともに起工されました。日本郵船はNYK Line として海外で知られているのですが、この3隻はN(新田丸)、Y(八幡丸)、K(春日丸)というように、日本郵船を代表する豪華客船として構想されたのです。

ところが戦雲が濃くなるとともに、建造中であった春日丸2世は航空母艦に改装されることになり、空母「大鷹」として竣工。1944年にフィリピン沖で雷撃を受け、沈没しました。

8月: 時津丸

日本郵船が建造した、VLCC(= very large crude carrier)です。26万トン。全長331メートル。東京タワーを横に倒したようなものですね。1976年竣工。日本の高度経済成長を縁の下の力持ちとして支えました。現在は時津丸(2世)が就航しています。

ちなみに、タンカーはTで始まる名前がつけられています。

9月:若菊丸

重量物専用船。船体中央部に位置する巨大なデリックで500トンの貨物を搭載することができます。

私が新入社員の頃はまだ現役で、チリのプンタアレナス港までの大型プラント輸送に起用されたりしておりました。私は神戸港に配属されていたのですが、山口県の下松港での重量物の積み込みを見たくて、有給休暇を取って駆けつけたことを思い出します。船長が気の毒に思って、船で朝ごはんをご馳走してくれました。 そう、私の同期で、いまや大船長となっているS君は、このとき三等航海士として張り切っていましたっけ。

10月:神明丸

自動車専用船です。このクラスだと乗用車を6000台積むことができます。浮かぶ巨大駐車場ですね。

日本郵船では自動車船の命名に際して、Jで始まる船名にしていました。自動車のJですね。 今は 〜Leader という船名に統一されています。羽田空港に向かってベイブリッジを越えると、左側(大黒埠頭の北側)で自動車を積み込んでいる日本郵船の船を見ることができますよ。

11月:西海丸

発電所で使う燃料炭のための専用船として、日本で初めて造られました。九州電力さんのために造ったので、こういう名前になりました。この船あたりから少ない人数でも操船できるようになっていて、確か18人だったかな。昔の船だと50人くらい乗組員が必要でしたから、隔世の感がありますね。

12月:播州丸

L N Gガス専用のタンカーです。ラクダのこぶのようなタンクの中には、マイナス163度の液化天然ガスが入っているんです。

私が新入社員の時には日本郵船が運航するL N Gタンカーは3隻でしたが、いまや70隻を超えるとか。日本のエネルギー事情の変化が、こういうところにあらわれているのですね。

最後に

この12隻、すべて「〜丸」であることにお気づきでしょうか。つまりは日本籍船であるということですね。今では、ほとんどの船が外国籍になっていますので、外航船で「〜丸」は絶滅危惧種です。私が新入社員の頃でさえ、日本郵船が世界中で運航する400隻あまりの船のうち、日本籍船は1割に満たなかった記憶があります。いま話題の外国人労働者問題のさきがけは、海運業だったのですね。

ちなみに、タイトルの写真は日本郵船が運行する日本最大の豪華客船 飛鳥II を船尾から撮ったものです。大きいですよね。

 

この記事を書いた人

元永 徹司

元永 徹司

ファミリービジネスの経営を専門とするコンサルタント。ボストン・コンサルティング・グループに在籍していたころから強い関心を抱いていた「事業承継」をライフワークと定め、株式会社イクティスを開業して12周年を迎えました。一般社団法人ファミリービジネス研究所の代表理事でもあります。

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