いま最も注目されている指揮者と演奏団体の初来日公演。コパチンスカヤが出演するということもあって話題沸騰。油断していたら東京でのコンサートは全て売り切れ。ということで大阪での公演をなんとか確保しました。
冷たい風が吹きすさぶ難波の夕暮れに、中之島フェスティバル・ホールへ。大阪では一回限りの公演のためか、ロビーは大混雑。大フィル音楽監督の井上道義マエストロや、脳科学者の茂木健一郎さんといった名士の方々もお見かけしました。
曲目は前半がコパチンスカヤのソロで、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲。後半は同じくチャイコフスキーの交響曲第6番、「悲愴」。
チャイコフスキー:バイオリン協奏曲
これは、コパチンスカヤの独壇場でした。スリッパを履いて登場したのですが、綺麗に揃えて脱いで、いつものように裸足になって演奏開始。自由自在にテンポを動かして弾いてました。実質、彼女が指揮をしていたようなものですね。「この曲はチャイコフスキーではなく、コパチンスカヤが作曲したのでは?」と思わせるくらいに、良い意味で「やりたい放題」の、でも素晴らしい演奏。このひとは、本当に凄い。
このあいだのシェーンベルクといい、今回のチャイコフスキーといい、彼女には完全にやられました。(私の感想としては、シェーンベルクの演奏の方がよかったのですけれど。昨夜はちょっとお疲れだったご様子。)
アンコールは、聴衆に、”Do you like contemporary music?” と問いかけ、藤倉大さんの小品を演奏。これも大受けでした。
チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」
この曲は、彼らの売りである立奏(立って演奏すること)でした。さすがにチェロと、チューバ(笑)は着席でしたが。私は立奏には批判的です。パフォーマンスに過ぎないと思うからです。
面白い演奏ではありました。ただ、プログラム等で彼が語っている、「作曲家が聴いていた響きでないと意味がない」という主張と、実際の演奏には食い違いがあるのではないでしょうか。第一楽章の、例のファゴットの ppppp 。ここはあっさりとバスクラリネットで置き換えていたのですよ。このことが象徴しているように、曲の印象を増幅するためには手段を選ばないという方針であるように私には思われました。ホルンに音を割らせたり。これは「伝統の破壊」とは違う話です。
第四楽章は 、凄絶な慟哭というよりも、身も蓋もない号泣。私はフルトヴェングラーの言葉を思い出しました。
みなさん、感傷的に過ぎます。ここは涙も出ない悲嘆なのです。
終演後は彼がピクリとも動かないので、30秒くらいの静寂がありました。演出過剰ですよね。
アルノンクールではなく、ストコフスキー
クルレンツィスのことを、「伝統の破壊者」あるいは「新しい伝統の開拓者」として賛美する方がたくさんおられることは承知していますが、私は賛成しません。真の意味での改革者であった、ニコラウス・アルノンクールとは違います。
昨夜の演奏に接したあと、一晩考えたのですが、私はクルレンツィスはストコフスキーのような存在だと考えます。彼が求めているのは、聴き手の感情に対して、知的ではなく生理的に訴えかけ、最大限に揺さぶるアプローチであるように私には思えます。そのためには、彼はあらゆる手段を使うのです。
ただ難しいのは、「あざとい」と言えるかどうかなのですね。私として「あざとい」の代表はロジャー・ノリントン。彼は、「こうすれば受ける」ことをやっているのだというのが私の見立てです。クルレンツィスの場合、「受けるから」ということも結果としてはあるのかもしれませんが、彼が心の底から求める音楽が、実はそういうものであるということなのではないかと。なので、「あざとい」と言って良いのかどうか。彼は自分には正直なのだと思うのです。
なので、私はクルレンツィスを嫌悪する立場は取りません。私が嫌悪するのは、彼を「新しい伝統の開拓者」に仕立てようとして、周到なマーケティングを行っている、ある意味で非常に有能な黒幕の人々です。クルレンツィスは、乗った以上は降りられないのではないでしょうかね。あるいは、案外その気になって、行けるところまで行く覚悟を固めたのかもしれません。
ともあれ、いろいろと考えさせられた演奏会でした。周囲が熱狂して拍手するなかで、私は冷めておりました。ホールを出たら、さらに気温が下がっていて、寒さが身に沁みました。