オタクによる、オタクのための、オタクな本:「オーケストラ~知りたかったことのすべて」クリスチャン・メルラン著

この本のタイトルを見ただけで食指が動く人は少ないでしょうね。私も新聞広告を見たときには、「また無味乾燥な概説書が出るのか」と、ちょっとうんざりした気分になりました。書店でたまたま見かけて、600ページ弱の大著であることと、6000円という価格にびっくり。ところがですよ、パラパラ拾い読みをしたのですけれど、5分後にはレジに並んでおりました。この本、クラシック音楽のオタクにとっては、とんでもなく面白いのです。

ご紹介いたしましょう。

著者は、妙に親近感を感じさせるオタク

クリスチャン・メルランさんはリール第3大学の助教授。専門は音楽学。2000年からフィガロ誌に音楽批評を書いているとのことです。音楽学が専門と言いつつ、文学博士でドイツ語教授資格を持っているということですので、もともと音楽家としての専門教育を受けた人ではないようです。そう、慶應の許光俊さんみたいな感じなのかもしれませんね。

ただ、この人はオタクなのです。「はじめに」からちょっと引用してみましょう。

あのフルートには言葉を失い、オーボエには心を奪われた。あれが並みの奏者であろうものか。誰が見ても名手なのだ。(中略)演奏会プログラムに付記される楽員名のリストを念入りにチェックするようになり、まずはミシェル・デボストとミシェル・ブネや、前述のフルートやオーボエの名手の名を記憶に刻んだ。以来、名前ひとつたりともおざなりにすまいと決心し、奏者が誰なのか音だけで推理し、世界の主要オーケストラの首席奏者の索引カードを作成した。インターネット普及以前の1980年代のことだ。根気の要る作業だった。

いや、同じようなことをしていた人がいるんだな、というのが私の感想です。私も中学・高校の頃から、NHKのFM放送で流れる海外オケメンバーによる室内楽や協奏曲の演奏を聴きながら、首席奏者たちの配置を推測していました。例えば、モーツアルトの協奏交響曲(k297b)をバイエルン放送交響楽団が演奏するのであれば、そこで告げられるソリスト、つまりオーボエのクルト・カルムスやファゴットのカール・コルビンガーの名前を首席奏者として記憶するといった具合です。そしてそれを後日、批評や来日時のプログラムで確認していたのです。ですので、メルランさん、とても他人とは思えません。

 

網羅的な構成

なにしろ600ページ弱ですからね。およそオーケストラに関することには、すべて触れているといっても過言ではありません。

構成はこんな感じ。

第1部 オーケストラの奏者たち: どのようにして楽団員になるのか、オケ内の社会学、オケの女性たち、生涯の道筋、などについて語られます。

第2部 構造化された共同体: 各楽器について、世界のオケの名手たちの逸話や、それへの洞察。楽器配置についても蘊蓄が。

第3部 指揮者との関係: 読み物としての面白さという点では、ここが白眉です。「指揮者ごろし」という節さえ用意されています。

付録: 世界の主要オーケストラの略歴(残念ながら日本のオケについては記載無し)と、世界400オケのリスト。

オタクが満を持して書くと、こうなるんでしょうね。圧巻です。

 

同世代人としての共感

メルランさんは私より4歳下なので、ほぼ同じ名演の音源によって育ってきたことがうかがわれて、個人的にはとても共感できます。優れた演奏家に対しての思い入れについても、「そうそう、そうなんだよ!」と思わず呟きながら読みました。

そんな中から、ヴィーン・フィルの名コンマス、ゲルハルト・ヘッツェルさんについて書かれた部分をちょっとご紹介。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の歴代のコンツェルトマイスターのなかでも、ゲルハルト・ヘッツェルほどこのポストにふさわしい人物はいなかった。1969年にボスコフスキーの反対を押し切って採用されたヘッツェルは、1992年、ザルツブルグでの山歩き中に、52歳という早すぎる死を迎えるまで、コンツェルトマイスターであり続けた。(中略)飾り気がなく、控えめに振る舞う苦行者のようでありながら笑顔を絶やさず、名高いコンサートであろうが、定期公演のマチネーであろうが、変わることなく情熱的に取り組み、自分の仕事に全身全霊で打ち込んだ。楽団員全員とすべての指揮者から尊敬されるような、まさに聖職者であった。

イタリアで野外コンサートが行われたとき、雨粒が落ち始めてきた。こんなとき、他のオーケストラはみな、楽器を痛めまいと慌てて逃げ出す。だが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は動かなかった。ヘッツェルが平然としていたからだ。ムーティが彼に目で問いかけると、ヘッツェルは首を横に振った。数分後には雨は止んでいた。

1975年にカール・ベームとともにヴィーン・フィルが来日した時、コンマスはヘッツェルさんでした。あの時の演奏に接した(私はTV経由ですが)私たちは、「コンマス、かくあるべし」という強い印象を受けました。それは、このあいだまでのキュッヒルさんに対しての感情とは、ちょっと異なるものです。

メルランさんは、やはり私と同世代ですね。

 

最後に、どう読むか

頭から読む必要はないと思います。そもそも事典的な本ですから。厚さも4センチもあるので、私は裁断して電子化し、気が向いたときに、気が向いたところを読んでいます。気をつけないと、やめられなくなるのが怖いのですけれど。

それにしても、この大著を翻訳してくださった藤本優子さん、山田浩之さんには感謝です。私のフランス語力では、この分量のものを読み通すことは不可能です。訳自体も、翻訳臭の無い、良い訳であると思います。翻訳者のお二人にも Bravo じゃなくて、Bravi を!

この記事を書いた人

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元永 徹司

ファミリービジネスの経営を専門とするコンサルタント。ボストン・コンサルティング・グループに在籍していたころから強い関心を抱いていた「事業承継」をライフワークと定め、株式会社イクティスを開業して17周年を迎えました。一般社団法人ファミリービジネス研究所の代表理事でもあります。

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