人生折り返し地点でのズービン・メータ 〜読後感:Zubin〜The Zubin Mehta Story

昨年ベルリン・フィルを率いて来日し、圧倒的な演奏を披露してくれたズービン・メータ。1936年生まれですから、今年で84歳ですか。その彼が42歳のときに出版されたのが、この “Zubin ~The Zubin Mehta Story” です。ですので、ちょうど人生の折り返し地点での彼を描いたということになります。

私がこの本を見つけたのは1993年のこと。当時留学していたシカゴ郊外の大学街、 Evanston にある古本屋でのことでした。ちょっと肌寒い秋の日であったことを記憶しています。今回、ひさしぶりに再読しました。

この本が出版された時点でのメータは、「メータ・サウンド」と呼ばれるほどに鍛え上げた手兵、ロサンゼルス・フィルハーモニーの音楽監督のポストを離れ、ニューヨーク・フィルハーモニーに移るタイミングでした。大成功してはいるものの、まだまだ登り坂のという段階。メータは、著者たち(シニカルな二人のイギリス人のジャーナリスト)のインタビューに対して驚くほど率直に答えていて、巨匠となった現在の時点での彼とはちょっと違った姿を見ることができます。

この本の翻訳が出ることはまず期待できないと思いますので、好楽家仲間のみなさんのために、面白いところをいくつかご紹介しましょう。

 

インド人ではあるがペルシャ系

メータはもちろんインドが生んだ巨匠ですが、インドで圧倒的な多数を占めるヒンドゥー教徒ではありません。彼は人種的にはペルシャ系で、ゾロアスター教の支流であるパーシー教徒です。メータはかなり熱心なパーシー教の信者であるようで、彼の最初の結婚式(奥さんはカナダ人)も2度目(アメリカ人)も、パーシー教の教義に厳格に従って行われています。奥さんたちも改宗したようですね。

2度目(そして現在の)奥さんとメータの出会いは、ロサンゼルスでのパーティの席。テヘランのモスクの装飾に関する議論の際に、ペルシャ語を話せる彼女がメータを論破したことがきっかけだったそうです。「うちの家系は二千年前にイランからインドに来たんだ!」と誇ったメータに対して、「だから何なの?私は二ヶ月前までテヘランにいたのよ!」というやりとりであったそうです。

 

小澤征爾というよりも齋藤秀雄

ほぼ同世代でアジア人ということで小澤さんと一括りに論じられることのあるメータですけれど、西洋古典音楽の受容という点からみると、実は一つ世代が異なります。

小澤さんは日本で斎藤秀雄先生からきちんとした音楽教育を受けています。近衛秀麿、貴志康一、斎藤先生たちを第一世代とすれば、小澤さんは第二世代。

メータについてのウィキペディアは、彼の父(ノリン・メータ)はインドで有名な指揮者だったと記していますが、これは誤りです。メータの父はヴァイオリニストで、臨時編成のオケを組織し、指揮したことがあるというだけです。(指揮者になったのはだいぶ後のことで、しかもアメリカでの話です。)メータはそこで父のアシスタントを務めましたが、インドでは音楽教育を受けていません。彼が進学したのは医学の専門学校です。そもそも、当時のインドには正式な音楽教育機関自体が無かったのです。つまり、メータは、西洋古典音楽の受容という点では、実は第一世代にあたります。日本でいえば、斎藤秀雄先生のようなものですね。

小澤さんはヨーロッパに武者修行に赴いた時点で、既に指揮者でした。一方、メータの音楽教育は、ヴィーンへの留学によってスタートします。メータはインド人であるものの、ヴィーン育ちの音楽家であり、これがのちに彼のキャリアに大きく効いてくることになります。(実際、彼のドイツ語はヴィーン訛りです。)

 

仲が良すぎる(?)兄弟

この本はメータの最初の奥さんのコメントを引用することが多いのですが、それがいずれも好意的なトーン。別れた奥さんなのに、どうして? と不思議に思っていたのですが、読み進んで謎が解けました。

なんと、メータの最初の奥さんの再婚相手は、メータの弟(ザリン・メータ)なのです。メータと弟はとても仲が良いとのことなので、最初の奥さんとメータとの関係も良好なのでしょうね。こういうケースはなかなか無いのでしょうけれど。

ちなみにメータの弟さんは会計士として、ロンドンで成功しています。

 

イスラエル・フィルとの関係が深い理由

無名時代のメータに声をかけたのがイスラエル・フィル(当時はパレスチナ・フィルという名前でしたが)だったということと、メータと仲の良いダニエル・バレンボイムの両親がイスラエルの音楽界で有力な存在であったということがそもそものきっかけです。

でも、決定的だったのは、イスラエルがエルサレムを奪回した六日戦争の際に、他の指揮者が皆キャンセルした中で、メータが危険を冒してイスラエルを訪問したことでした。イスラエルの人たちを鼓舞するための演奏会を、バレンボイムと、その奥さんであったジャクリーヌ・デュ・プレとともに何度も開催。さらにメータは奪還直後、まだ砲声が響く最中に、エルサレムの神殿の丘を訪れることさえしています。イスラエル・フィルにとって、メータは苦難の時を共にした戦友なのです。

 

代演、代演、代演、そしてスター指揮者へ

実はメータには厳しい挫折の時がありました。

1958年にリバプールでの指揮者コンクールに優勝したメータは、ロイヤル・リバプール・フィルの副指揮者に就任しました。しかし、正指揮者であったジョン・プリッチャードに疎んじられ、また不得意なレパートリーを振らざるを得なかったこともあり、1年で解任され、全くの無職になってしまったのです。

1960年の春、失意のメータはウィーンに戻り、あてのない就職活動に奔走します。かなり厳しい状況で、奥さんは子供を連れてカナダに帰ってしまいました。

そんなメータに、一筋の幸運の光が当たります。全然期待することなく依頼していたアメリカのエージェントがストコフスキーにメータのことを売り込んだのです。メータの指揮を見たことも聴いたこともなかったストコフスキーは、しかし彼一流の気まぐれから、フィラデルフィア管弦楽団のサマーコンサートをメータに振らせることを決めます。(ストコフスキーがサボりたくなったからという説もあります。)時を同じくして、前の夏にタングルウッドでメータを教えたバーンスタインもメータをニューヨーク・フィルのサマーコンサートに起用してくれることになりました。

困窮していたメータはウィーンからアメリカまで飛ぶ航空券を買うことができず、在オーストリア・インド大使館に頼み込み、なんとか旅費を工面してもらって渡米しました。

フィラデルフィアでのコンサートは成功、ニューヨークでの評判は今ひとつ。いずれからもオファーをもらえなかったメータは、お金が無かったため、長距離バスでカナダのウィニペグへ赴き、実家に帰っている奥さんと子供に会うことにしました。そのことを聞いたエージェントは、バスの乗り換え地点であるモントリオールでモントリオール交響楽団の支配人を訪ねるように指示します。これが運命の転換点でした。

当時、モントリオール響の常任指揮者はイーゴリ・マルケヴィッチでした。彼は1960年の9月に日本を訪れ、大成功をおさめています。あの、日フィルとの歴史的な「春の祭典」はこの時のことです。ヨーロッパでも引く手あまただったマルケヴィッチは、仮病を使って1960−61年シーズンでのモントリオール響のコンサートをバッサリとキャンセル。シーズン開幕を直前に控えてパニックに陥ったモントリオール響は、血眼になって指揮者を探していたのです。

そこに降って湧いたように出現したのがメータ。暇であったメータは喜んで代役を引き受け、それが大成功。メータはモントリオール響の常任指揮者のポストを手にしたのです。

念願のポストを得て、ひと安心したメータ。しかし、例のエージェントはメータにロサンゼルスへ飛ぶように命じました。メータはあまり乗り気ではなかったのですけれど、ここで当時の音楽監督だったショルティのテストを受け、副指揮者に任命されました。ヴィーンに戻るべくロスからニューヨークへ向かったメータに、ロサンゼルス・フィルから至急電報が届きます。そう、当時はまだ電報が頻繁に使われている時代だったのです。その電報は、フリッツ・ライナーが急病でキャンセルしたため、メータに代演を求めるものでした。

ロスへ飛んで戻ったメータは大成功をおさめます。それだけでなく、ロスフィルの大パトロンであるチャンドラー夫人に強い印象を残し、これが後年、ロスフィルの常任に招かれる大きな要因となります。

そして、なんとライナーの翌月にロスフィルを振る予定だったマルケヴィッチが、今度は本当に病気でキャンセル。メータはロスに残ってこのコンサートも代演し、さらに成功したのです。

ヴィーンに帰ったメータを待っていたのは、さらに驚くべきニュースでした。ヴィーン・フィルを振る予定だったユージン・オーマンディがキャンセルし、メータに代演を求めて来たのです。もちろん、メータはこのオファーに飛びつきました。天にも舞い上がる心地だったメータに、今度はイギリスから電報が。トーマス・ビーチャムが病気になったことによる、ロイヤル・フィルハーモニックへの代演要請でした。さらにはテル・アヴィヴから、オーマンディの代演としてイスラエル・フィルを振る依頼も舞い込みました。

1960年の秋から61年の初夏にかけての9ヶ月に、4人の大指揮者が病気になり、そこで代演を務めたことによってメータは一躍スター街道を歩み始めるに至ったのです。その時、メータ、25歳。なんという強運の持ち主でしょうか。

さて、メータは功なり名を遂げ、70歳になった2006年に自叙伝を公にしています。”The Scores of My Life”という書名です。

昨日、私の手元に届きました。さて、70歳のメータが自分の歩みをどのように振り返っているのか、これから読んでみようと思います。

この記事を書いた人

元永 徹司

元永 徹司

ファミリービジネスの経営を専門とするコンサルタント。ボストン・コンサルティング・グループに在籍していたころから強い関心を抱いていた「事業承継」をライフワークと定め、株式会社イクティスを開業して12周年を迎えました。一般社団法人ファミリービジネス研究所の代表理事でもあります。

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